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広津和郎 : ミニ英和和英辞書
広津和郎[ひろつかずお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 

広津和郎 : ウィキペディア日本語版
広津和郎[ひろつかずお]

広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年明治24年)12月5日 - 1968年昭和43年)9月21日)は、日本小説家文芸評論家翻訳家である。明治期に活動した硯友社の小説家・広津柳浪の子。
== 年譜 ==

* 1891年(明治24年)
 * 広津柳浪〔祖父・広津藍渓は久留米有馬家に仕えた儒学者、父・弘信は長崎で医業を営む傍ら征韓論者として使節に参加したり外務省嘱託となった。〕と須美(旧姓・蒲池)〔祖父・蒲池鎮克西国郡代を勤めた大身旗本。父・蒲池鎮厚は旧旗本。〕の次男として、東京牛込矢来町で生まれた。〔近くの横寺町に尾崎紅葉の家があったために紅葉をはじめ泉鏡花小栗風葉柳川春葉川上眉山など硯友社の同人がしばしば訪ねてきた。〕2歳年長の兄・俊夫がいた。
* 1898年(明治31年) 7歳
 * 東京市立赤城小学校に入学した。
 * 母・須美が結核で病死した。享年27。
 * この頃、中村吉蔵が寄寓し、永井荷風が父・広津柳浪に弟子入りした。
* 1900年(明治33年)9歳
 * 東京牛込弁天町に転居、以後頻繁に東京市内を移転した。
* 1902年(明治35年)11歳
 * 父・広津柳浪が再婚し継母・潔子を迎えた。
* 1904年(明治37年)13歳
 * 麻布中学校に入学、病弱で欠席がちだった。〔この頃、父・広津柳浪のもとに舟木重雄らが訪れるようになり雑誌『にひしお』を発刊した。〕
 * 東京麻布霞町、笄町に転居した。
* 1905年(明治38年)14歳
 * 東京麻布霞町に転居した。
 * 雑誌『女子文壇』に短文「不眠の夜」を投稿、特別賞を得た。
 * この頃、同級生だった伊達順之助石田幹之助細川潤一郎などと知り合った。
* 1907年(明治40年)16歳
 * 正宗白鳥の『妖怪画』を読み小説に関心をもった。
* 1908年(明治41年)17歳
 * 『微笑』が「万朝報」の懸賞小説に当選、賞金10円を得た。
* 1909年(明治42年)18歳
 * 麻布中学校を卒業した。
 * 早稲田大学文科予科に入学、同級生に谷崎精二白鳥省吾今井白楊青山杉作坪田譲治日夏耿之介らがいた。
 * 父・広津柳浪は流行作家ではなかったので収入も少なく一家の生活は困窮していた。和郎は大学在学中には翻訳などで原稿料を稼ぐようになっていた。この頃、健康法として岡田式静坐法を始めた。
* 1910年(明治43年)19歳
 * 早稲田大学英文科に進学した。〔早大文学部長だった島村抱月の美学講義や片上伸(片上天弦)の英文学講義などを受けた。また文芸協会解散の頃には早大教授だった坪内逍遥邸でジョージ・バーナード・ショー研究の講義を受けた。〕
* 1912年(明治45年/大正元年)21歳
 * 雑誌出版の参考意見を聞くために舟木重雄らとともに志賀直哉を訪ねた。
 * 舟木重雄を中心に葛西善蔵光用穆相馬泰三峯岸幸作(後に谷崎精二)らとともに、同人雑誌『奇蹟』を創刊した。(翌年、第7号で廃刊)
* 1913年(大正2年)22歳
 * 早稲田大学を卒業した。
 * 一家の生活が窮乏し東京麻布霞町の借家から追い立てられ、麻布本村町に転居した。
 * 徴兵検査で「第一乙種砲兵」と判定された。
 * 生活費を稼ぐためにギ・ド・モーパッサンの『女の一生』を翻訳して植竹書院から出版した。
* 1914年(大正3年)23歳
 * 補充兵教育召集で3ヶ月召集されたが、結核の疑いで世田谷の衛戍病院入院となった。
 * 父・広津柳浪が結核になり継母とともに名古屋に転地療養することになり、生活の必要から父の紹介で毎夕新聞に入社した。〔社会部長の永代静雄は田山花袋の「蒲団」の女主人公の恋人のモデルとなった人物で、光用穆の友人でもあった。〕
 * 東京麹町永田町の永田館に下宿した。
 * 翻訳の仕事を求めて宇野浩二が訪ねてきた。葛西善蔵が一時同居した。〔宇野浩二『青春期』参照。〕
 * 毎夕新聞に連載記事「須磨子抱月物語」を執筆した。
* 1915年(大正4年)24歳
 * 年上の下宿の娘・神山ふくと男女の関係となり煩悶した。
 * 毎夕新聞を退社し、相馬泰三の紹介で植竹書院翻訳部に入社した。
 * 宇野浩二とともに三保の松原に旅行しトルストイの『戦争と平和』を翻訳した。(翻訳終了で植竹書院退社)
 * 父・広津柳浪の作品集の印税を届けに名古屋の父のもとへ行き、父を知多半島の師崎海岸に転地療養させた。
 * 東京へ戻り、神山ふくと距離をおくために西片町の宇野浩二の家に同居、鍋井克之沢田正二郎渡瀬淳子江口渙永瀬義郎広島晃甫らと交際した。
 * 兄・俊夫が会社で使い込みをしたことが発覚、病身の父・広津柳浪が善後策を相談するために上京してきた。
 * 神山ふくが妊娠したので東京池上の農家で出産させることにした。
 * 父の療養費・娘の出産費などを賄うために茅原華山が主宰する雑誌『洪水以後』に入社し文芸時評を担当、文芸批評家として注目されるようになった(翌年、廃刊)。
 * 神山ふくが長男・賢樹を出産した。
* 1916年(大正5年)25歳
 * 予備召集で3週間召集された。
 * 兄・俊夫のとった行動〔上京し興信所に就職し一時和郎とともに西片町の宇野浩二の家に居候したが、その後神山ふくのいる永田町の下宿にころがりこんで和郎の着物などを質入してしまった。そのため和郎の召集解除のときは兄ではなく神山ふくが着替えの着物を用意して迎えに来た。〕が原因で永田町の下宿にもどった。
 * 雑誌『新潮』の編集者中村武羅夫から文芸評論の執筆を依頼され、以後『文章世界』・『時事新報』・『読売新聞』にも執筆するようになった。
 * 神奈川県江ノ島の片瀬龍口寺付近に神山ふくと長男・賢樹、知多半島の師崎から父母を迎え家をもった。
 * 神奈川県鎌倉坂の下に転居した。
* 1917年(大正6年)26歳
 * 雑誌『トルストイ研究』に「怒れるトルストイ」を発表、トルストイの道徳・教訓を厳しく批判した。
 * 神山ふくと父母との折り合いが悪いため父母を鎌倉に残して永田町の下宿に転居した。
 * 正宗白鳥の紹介で雑誌『中央公論』主筆・滝田樗陰と知り合った。
 * 雑誌『中央公論』に「神経病時代」〔好景気の時代の悩むインテリ青年の苦悩を描き、新しい時代を予感させる作品となった。〕を発表、文壇的処女作となった。
 * 若い文学者の会合「三土会」に参加し芥川龍之介菊池寛佐藤春夫久米正雄などと知り合った。
 * この頃、有楽町のカフェでM子と知り合った。
 * この頃、岩野泡鳴の主催する十日会にしばしば参加した。
* 1918年(大正7年)27歳
 * 神山ふくとの婚姻届を出した。
 * 長女・桃子が生まれた。
 * 宇野浩二の「蔵の中」発表のために奔走した。
* 1919年(大正8年)28歳
 * 宇野浩二の誘いで原稿執筆のために三保の松原に行きスペイン風邪に感染した。
 * 雑誌『中央公論』に「死児を抱いて」を発表した。
 * M子とともに信州の渋温泉を経て奈良に旅行、画家・鍋井克之の紹介で大阪で画家・小出楢重と知り合った。
 * 妻・ふくと別居、長男・賢樹、長女・桃子はふくが引き取った。
* 1921年(大正10年)30歳
 * 雑誌『人間』に小説を執筆したことがきっかけで直木三十五と知り合った。
 * 東京本郷の下宿八重山館の近所に久米正雄の家があったために菊池寛と知り合った。
* 1923年(大正12年)32歳
 * 友人と出版社・芸術社を作り、『武者小路実篤全集』を出版するが失敗し借金を抱えた。
 * 関東大震災で被災、鎌倉の父母を見舞った後、芸術社の集金のため大阪・京都・神戸に行った。
 * 銀座のカフェ・ライオンの女給・松沢はまと知り合った。
* 1924年(大正13年)33歳
 * 「散文芸術の位置」を雑誌『新潮』に発表、散文芸術は従来の美学では律し得ないものであることを主張した。
* 1925年(大正14年)34歳
 * この頃、東京本郷菊坂の菊富士ホテルに仕事場をもち、宮本百合子湯浅芳子らと知り合った。〔片岡鉄兵の頼みで本人と知らずに共産党幹部の田中清玄佐野博に宿を提供したり、街頭連絡中の間宮茂輔が訪ねて来たりした。〕
* 1926年(大正15年・昭和元年)35歳
 * この頃、東京大森馬込に松沢はまと家庭をもち、尾崎士郎宇野千代萩原朔太郎らと親交を深めた。
* 1927年(昭和2年)36歳
 * 尾崎士郎宇野千代の誘いで伊豆湯ヶ島湯本館に滞在し、新潮社の世界文学全集に加えるためギ・ド・モーパッサンの『女の一生』の旧訳をフランス語原文で訂正した。〔偶然湯本館を訪れていた三好達治が翻訳に力を貸してくれることになった。また梶井基次郎も訪れてきて、普段は和郎の手許にはいない長男・賢樹と川遊びをしてくれた。〕
 * 宇野浩二が精神に変調をきたしたため芥川龍之介らとともに斉藤茂吉の診察を受けさせて王子の小峰病院に入院させた。
 * 芥川龍之介が自殺した。
* 1928年(昭和3年)37歳
 * 世田谷三宿に住んでいた葛西善蔵に呼ばれ、改造社からの借金を依頼された。
 * 父・広津柳浪が病死した。
* 1929年(昭和4年)38歳
 * 芸術社の債務償還や兄夫婦の生活費のために大森書房を設立した。
* 1930年(昭和5年)39歳
 * 婦人公論に『女給』を連載、菊池寛中央公論社との間で紛争〔婦人公論の雑誌広告の内容とそれに対する菊池寛の投稿原稿を中央公論社が勝手に改題したことが紛争の原因であった。『続年月のあしおと』参照。〕が起き、その調停をした。
 * 東京世田谷豪徳寺に家を新築し転居、この頃から長男・賢樹、長女・桃子がしばしば訪ねてくるようになった。近所には間宮茂輔中野重治徳永直青野季吉らが住んでいた。
* 1933年(昭和8年)42歳
 * 報知新聞に『風雨強かるべし』を連載した。〔プロレタリア文学の流れには直接加わらなかったが、〈同伴者作家〉と呼ばれたように、社会の現実をみつめる作品を書いた。連載中に内務省警視庁から「触れてはならない事項」十五か条(左翼運動の具体的な方法を書いてはいけない、留置場の光景を書いてはいけない、取調べの模様を書いてはいけない、作全体の上に左翼に対する同情があってはいけない等々)が指示されたという。〕
 * 宇野浩二とともに「文学界」同人となった。
* 1934年(昭和9年)43歳
 * 継母・潔子が独居を希望したために東京西大久保の借家に転居した。
 * 仕事場を菊富士ホテルから新宿ホテルに移した。
 * 島崎藤村徳田秋聲近松秋江宇野浩二佐藤春夫らとともに内務省警保局松本学の主宰する文芸懇話会に参加した。
* 1935年(昭和10年)44歳
 * 文芸懇話会賞候補に選ばれた島木健作の『獄』が受賞できなかったので松本学に抗議した。
 * 新宿ホテルで狭心症の発作をおこした。
 * X子〔『続・年月のあしおと』参照。〕との関係が始まった。
* 1936年(昭和11年)45歳
* 人民文庫講演会で「散文精神について」と題して講演し、暗黒な社会状況にめげず生きとおしていく精神が散文精神であると主張した。
* 1937年(昭和12年)46歳
 * 「心臓の問題」「歴史を逆転させるもの」を雑誌『文芸春秋』に発表した。
 * 長男・賢樹が腎臓結核となり手術を受けた。
* 1938年(昭和13年)47歳
 * この頃、X子がしばしば服毒(睡眠薬カルモチンや砒素)自殺を計り、妻・はまが問題解決に尽力した。
 * 継母・潔子が病弱となったため世田谷豪徳寺の家に戻った。
* 1939年(昭和14年)48歳
 * 長男・賢樹、継母・潔子が病死した。
 * 「国民にも言はせて欲しい」を雑誌『文芸春秋』に発表した。
* 1940年(昭和15年)49歳
 * 丹羽文雄の仲介でX子に当面の生活費を渡し別れた。
 * 真杉静枝の誘いで妻・はまとともに台湾を旅行した。
* 1941年(昭和16年)50歳
 * 間宮茂輔の誘いで朝鮮・満州を旅行、朝鮮では金史良に会い、満州では開拓村(弥栄・龍爪・千振村)を視察した。
 * この頃から同じ世田谷に住む志賀直哉と親しくなった。
* 1942年(昭和17年)51歳
 * 日本文学報国会結成の会議に参加し、大政翼賛会文化部長・岸田国士提案の会則案では会長に官僚天下りの可能性があるとして反対した。
 * 大和地方を旅行、この頃から奈良・日吉館を定宿とするようになり骨董・書画に関心をもつようになった。〔奈良滞在中に妻・はまから「コトバヲツツシンデクダサイ ハマ」という文学報国会での舌禍を戒める電報が届いた。〕
* 1944年(昭和19年)53歳
 * 世田谷豪徳寺の家を売り世田谷四丁目の家を買い転居した。
 * 静岡県熱海市清水町に疎開した。
* 1945年(昭和20年)54歳
 * 炭などの生活物資を取りに行くためにしばしば熱海と世田谷を往復した。
 * 世田谷四丁目の家に谷崎精二一家が転居、間もなく前の家が空いたのでそこに移った。
 * 東京で最後の空襲を経験した。
 * この頃から体調が悪化し膀胱癌の疑いがあった。
 * 世田谷四丁目の家を売り生活費にあてた。
 * 使役を逃れるため一時静岡新聞社に入社した。
* 1946年(昭和21年)55歳
 * 国立熱海病院で診察の結果膀胱癌ではなくバンビロームと判り手術を受けた。
* 1948年(昭和23年)57歳
 * 熱海に転居してきた志賀直哉と再び親しく交際するようになった。
* 1949年(昭和24年)58歳
 * 宇野浩二とともに芸術院会員となった。
* 1950年(昭和25年)59歳
 * 熱海の大火で清水町の家が焼失、下天神町の新居に移った。
* 1951年(昭和26年)60歳
 * 宇野浩二のすすめで松川事件の被告らが書いた「真実は壁を透して」を読み、松川事件に関心を抱いた。
* 1952年(昭和27年)61歳
 * 東京本郷森川町の双葉館に仕事場をもち、熱海から通った。
* 1953年(昭和28年)62歳
 * 宇野浩二らとともに松川事件第二審公判傍聴のために仙台に行き、事件現場を視察した。
 * 松川事件被告の無罪を訴える「真実は訴える」を雑誌『中央公論』に発表した。
 * 松川事件二審で有罪判決が出た。
* 1957年(昭和32年)66歳
 * 東京文京区大塚のアパートに仕事場をもち、熱海から通った。
* 1958年(昭和33年)67歳
 * 松川事件対策協議会の会長となった。
* 1959年(昭和34年)68歳
 * 松川事件の最高裁判決で第二審判決は破棄され仙台高裁に差し戻しとなった。
* 1961年(昭和36年)70歳
 * 松川事件の仙台高裁差し戻し公判で、被告全員に無罪判決が出た。〔病気療養中でこの裁判に関われなかった宇野浩二から次のような電報が届いた。「ヒロツクンイマワユウコトバナシ/オメデトウヨロコンデバンザイ/ゴケンショウヲイノル/ウノコウジ」〕
 * 宇野浩二が死去した。
* 1962年(昭和37年)71歳
 * 妻・はまが死去した。
* 1963年(昭和38年)72歳
 * 松川事件の最終判決がくだり、被告全員の無罪が確定した。
* 1968年(昭和43年)77歳
 * 心臓発作をおこして熱海国立病院で死去した。
墓所は東京都台東区谷中霊園

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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