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宇野浩二 : ミニ英和和英辞書
宇野浩二[うの こうじ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [の]
 【名詞】 1. field 
: [に]
  1. (num) two 

宇野浩二 : ウィキペディア日本語版
宇野浩二[うの こうじ]

宇野 浩二(うの こうじ、1891年明治24年)7月26日 - 1961年昭和36年)9月21日)は、日本小説家作家。本名は、宇野格次郎。
福岡県福岡市南湊町(現在の福岡市中央区荒戸一丁目)に生まれる。〔当時の一家の様子は『人間同志』『歳月の川』『母の秘密』参照。〕父は六三郎〔江戸末期に大坂天満で与力をしていた宇野格の次男として生まれる。宇野格は信濃滋野家の出身。墓は福岡県福岡市博多区千代の崇福寺にあった。〕、母はキョウ〔江戸末期に大坂岸和田藩で馬廻り役350石取りであった福岡其楽の長女として生まれる。母は里勢。兄・福岡正朔の世話で六三郎と結婚。結婚後のキョウの苦労を見て育った浩二は後に「一に文学、ニに母親、三に恋人」と言い母を大切にしている。〕。7歳年長の兄・崎太郎は幼時に脳膜炎にかかり知的障害があった。
== 年譜 ==

* 1891年明治24年)0歳
 *福岡県師範学校の教員であった父・六三郎と母・キョウの次男として福岡市湊町に生まれる。〔浩二の一族の係累については『人間同志』参照。〕
* 1894年(明治27年) 3歳
 *父・六三郎が脳溢血で急死〔墓は福岡市の崇福寺か?『歳月の川』参照。〕。
 *父の従弟・本多義知(当時、明治燐寸会社社長)を頼って神戸市湊町へ移った。
* 1895年(明治28年) 5歳
 *母が六三郎の遺産を六三郎の姉の夫・入江憲治(大阪伊丹在の大庄屋)に預託することとなり本多家に居づらくなったので大阪市東区糸屋町一丁目に移り祖母・里勢も同居した。
 *母はここで志村新子〔知恵遅れの清子という妹がおり、一時清子と兄・崎太郎との縁談話がもちあがったことがあった。〕という若い女性や軍用商人、新派俳優松平龍太郎・秋月桂太郎などと交際し清元・三味線を覚え、浩二もしばしば芝居小屋に出入りするようになった。母の兄・福岡正朔も一時居候した
* 1897年(明治30年) 6歳
 *陸軍偕行社付属尋常高等小学校に入学、3年上級に江口渙がいた。〔『遠方の思出』参照。〕
* 1899年(明治32年) 8歳
 *入江家の破産で遺産を失い〔『滅びる家』参照。〕、一時本多家に身を寄せるが、やがて母の兄・福岡正朔を頼って花柳界に近い大阪市南区宗右衛門町の通称十軒路地に移った。この頃新派俳優秋月桂太郎が下宿したこともあり、しばしば道頓堀で芝居見物をした。〔『遠方の思出』『清二郎 夢見る子』『十軒路地』参照。〕
* 1900年(明治33年) 9歳
 *母は福岡家に浩二と祖母里勢を預け、兄の崎太郎は本多家に預けなおして、自らは大和高市郡天満村(現・大和高田市)の根成柿(ねなりがき)にある遠い親戚に身を寄せ、近所の料理屋(中川政蔵の経営する「紺嘉」)で三味線や踊りを教えて生活した。
* 1901年(明治34年) 10歳
 *育英尋常高等小学校に転校。〔偕行社付属尋常高等小学校への遠距離通学の疲れで半年程休学したことなどが原因で転校した。『遠方の思出』参照。〕十軒路地に住んでいた周旋屋の子宮本卯三郎(姉の八重子が浩二の初恋の相手〔『十軒露地』『橋の上』参照。〕か?)や1年下級で後に横綱大錦卯一郎となる細川卯一郎、1年上級の保高徳蔵と交友関係をもつ。
* 1904年(明治37年) 13歳
 *本多家の学資援助で大阪府立天王寺中学校(天王寺高等学校の前身校)に入学。同級生に保高徳蔵、日本画家・青木大乗(青木精一郎。浩二が同性愛的な好意を寄せたか?)〔青木大乗は日本経済新聞掲載の『宇野浩二君』という文章で次のように書いている。「宇野の最も変っていたのは、毎日あっているのに、私に手紙を二日目ごとに書いてくることだった。・・・・手紙の終わりには『道頓堀川畔、ユアース弟格ニ』と書くのであった。それがみなラブレターで、実に纏綿たる情緒のあふれたものだった。」〕、後に横綱大錦卯一郎となる細川卯一郎、1年上級に画家・鍋井克之がいた。
 *のち校友会雑誌『桃陰』に作品(詩『ほのお』散文『故郷』『自然の法則』)を投稿した。
* 1906年(明治39年) 15歳
 *本多義知から商業学校への転校を命じられるが編入試験の前日に福岡家に逃げ帰り天王寺中学に通い続けた。
 *脚気が発病する。
* 1909年(明治42年) 18歳
 *天王寺中学卒業。
 *田山花袋の『田舎教師』の影響をうけ青木大乗(青木精一郎)とともに大阪府中河内郡若江村の小学校に代用教員として赴任。〔北若江小学校に勤務して正願寺に寄宿した。『或る青年男女の話』『思ひ出の記』『人間同志』参照。〕
 *脚気が再発したため教員を辞めて大和天満村の母のもとに身を寄せ〔『人間同志』『思ひ出の記』参照。〕、中川政蔵の弟・中川嘉蔵〔『人心』『高天ヶ原』『枯野の夢』『子を貸し屋』参照。〕と知り合う。朝鮮の京城にいた保高徳蔵と購入した文芸雑誌を送り合う。
* 1910年(明治43年) 19歳
 *福岡家から大和天満村に呼び寄せた祖母が死去。〔母と伯父・福岡正朔により根成柿の共同墓地に埋葬された。『思ひ出の記』『枯野の夢』『人間同志』『高天ヶ原』参照。〕
 *本多義知の子・一太郎から上級校進学のための資金援助が約束され、〔『思ひ出の記』参照。〕東京赤坂霊南坂にあった本多義知の子・重造宅に寄宿〔本多家の筋向いに住んでいた国際法学者寺尾亨(東京帝大七博士の一人で孫逸仙の親友)に保証人となってもらい、寺尾邸で開かれた晩餐会にしばしば参加した。寺尾家では養女となっていた東山千栄子や本多謙三(商科大教授)、頭山満などと顔をあわせた。『文学の三十年』『出世五人男』参照。〕、早稲田大学英文学科予科に入学。同級生に高田保三上於菟吉沢田正二郎増田篤夫、1年上級に今井白楊広津和郎谷崎精二、1年下級に保高徳蔵・直木三十五田中純青野季吉がいた。
 *浩二を頼り朝鮮から上京してきた保高徳蔵と水郷めぐりで利根川に旅行した。
 *本多家を出て東京雑司が谷の借家で自炊生活を始める。斎藤青羽・三上於菟吉・浦田芳朗らがしばしば訪れ、保高徳蔵も一時ここに同居した。〔保高徳蔵「宇野浩二」(『作家と文壇』所収)、『文学の三十年』参照。このときの下宿代や食費だけではなく、前年の旅行の費用や東京での遊興費などをほとんど保高が負担していたようである。またこの頃、浩二は本多家の女中と関係をもち童貞を失ったようである。〕近所に住む秋田雨雀と知り合う。〔『文学の三十年』参照。〕
 *東京牛込若松町の下宿三州館(三枡館?)、さら近くの若松館に転居した。
* 1911年(明治44年) 20歳
 *東京牛込白銀町の下宿都築に転居、同じ下宿に三上於菟吉・泉斜汀夫妻がおり、近松秋江・斎藤青羽・三富朽葉・今井白楊・浦田芳朗・片岡鉄兵らが訪れてきた。
 *大阪に帰省し、青木大乗(青木精一郎)の紹介で渡瀬淳子を知った。〔『青春期』参照。〕
* 1912年(明治45年・大正元年) 21歳
 *青木大乗(青木精一郎)の父の出資で三上於菟吉・斎藤青羽・今井白楊・増田篤夫らと大阪で雑誌『しれえね』発刊、風俗紊乱の理由〔三上於菟吉の小説『薤露歌(かいろか)』が風俗紊乱の罪に問われ40円の罰金を科された。『青春期』参照。〕で発行禁止となる。
 *来阪していた近松秋江に大阪を案内した。〔『近松秋江論』参照。〕
* 1913年(大正2年) 22歳
 *小説集『清二郎 夢見る子』を白羊社書店から処女出版した。
 *本郷区役所で徴兵検査を受けた。このとき面識はなかったが江口渙も徴兵検査を受けていた。
 *広島晃甫の下宿で江口渙と知り合った。〔江口渙「若き日の宇野浩二」(『わが文学半生記』)参照。〕
 *東京小石川上富坂町の下宿いろは館や浅草の子供靴屋に間借りした。この頃中川嘉蔵が大和天満村から上京、浅草で商売を始めた。〔『高天ヶ原』『枯野の夢』参照。〕
* 1914年(大正3年) 23歳
 *大和高田の母の元に出入りしている女性(商人某の妾・加代子。浩二の第二の恋か?)と会い、以後恋文のやりとりをした。〔『若い日の事』『高天ヶ原』参照。〕
 *東京牛込若松町の下宿清月館に転居、極貧の苦しい生活を送った。〔この下宿には俳優倉橋仙太郎がいたほか、女優の渡瀬淳子などもしばしば来訪し、美術劇場創設について話し合われた。『恋愛合戦』『文学の三十年』参照。〕この頃、銀座のカフェ・パウリスタにしばしば通った。〔佐藤春夫や青鞜社同人の尾竹紅吉らと顔を合わせた。〕
 *新劇団「美術劇場」〔東京美術学校学生だった永瀬義郎・鍋井克之が芸術座を脱退した倉橋仙太郎とともに創立。同人には芸術座を脱退した沢田正二郎・渡瀬淳子らの他に高田保・片岡鉄兵がいた。脚本を担当したのは秋田雨雀・楠山正雄。福沢桃介邸内にあった試演場や有楽座で公演を行なうが資金難で解散。『恋愛合戦』『文学の三十年』参照。〕同人として公演に参加。
 *翻訳の仕事を求めて広津和郎を訪ね、谷崎精二とも知り合いとなった。
 *母や加代子とともに関西旅行をしたことが加代子の旦那・商人某に知られ加代子と絶交、母も大和高田に居にくくなった。〔『若い日の事』参照。〕
 *卒業試験に落第し早稲田大学中退。
* 1915年(大正4年) 24歳
 *母が大和高田から上京、沢田正二郎の内妻となっていた渡瀬淳子の紹介で借りた東京本郷西片町の借家に住んだ。〔『西片町の家』参照。〕
 *広津和郎とともに三保の松原に旅行し島村抱月訳『戦争と平和』の下訳をした。この頃から広津とは親交を深め約1年西片町の借家に同居した。〔広津和郎「西片町時代」(『年月のあしおと』所収)、『文学の三十年』参照。〕
 *広津和郎とともに相馬泰三の下宿で初めて葛西善蔵〔『文学の三十年』『文芸よもやま談義 葛西善蔵の一生』参照。〕と会った。
 *処女作童話『揺籃の唄の思ひ出』を雑誌「少女の友」に発表。
* 1916年(大正5年) 25歳
 *蛎殻町の銘酒屋にいた伊沢きみ子〔伊沢修二伊沢多喜男の姪。父は医者、叔父に警視総監から台湾総督になった伊沢多喜男をもつなど、上流の一族出身だが、家出して周旋屋に騙され横須賀で芸者に出ていたが、そこを夜逃げ同然で鞍替えして東京蛎殻町の娼婦街で銘酒屋につとめていた。浩二は後に彼女の激烈なヒステリー症状に悩まされることとなる。『軍港行進曲』『続軍港行進曲』『苦の世界』『人心』『浮世の窓』参照〕と馴染み、西片町の家に同棲した。
 *母の兄・福岡正朔が危篤となったため、母は大阪に行き葬式万端を済ませた。〔『人間同志』参照。〕
 *浩二の生活苦を救うためきみ子が蛎殻町から横須賀の芸者屋に身売りした。きみ子が前借を踏み倒して脱走するのを幇助したため身を隠す必要から東京渋谷の竹屋に「水上潔」の変名で大阪から帰った母とともに間借りした。〔『軍港行進曲』『浮世の窓』参照。〕
 *この頃、しばしば江口渙に会い、きみ子に内緒で原稿料を得るために江口渙名で童話を執筆した。。〔江口渙「若き日の宇野浩二」(『わが文学半生記』)参照。〕
* 1917年(大正6年) 26歳
 *生活に窮したため東京神田錦町の出版社蜻蛉館(社長・加藤好造〔『軍港行進曲』では加藤、『苦の世界』では山本、『浮世の窓』では芳野友造、『従兄弟同志』では佐原新之助という登場人物のモデルである。加藤の依頼で『誰にも出来る株式相場』を書き出版した。〕)に「水上潔」の変名で勤務し、文芸雑誌「処女文壇」を編集、佐藤春夫・葛西善蔵などに原稿を依頼した。〔当時、葛西善蔵は金策のために末っ子とともに妻を故郷に帰し、上の2人の子と牛込天神町にいた。この時、葛西は「雪をんな」を執筆した。『文学の三十年』参照。〕
 *東京代々木の借家に転居した。
 *母を赤坂の本多家に預け、きみ子が横浜八王子の芸者屋に身売りした資金で東京九段中坂の下宿芳明館に転居、きみ子としばしば出会うこともあった。〔『軍港行進曲』『人心』参照。〕
* 1918年(大正7年) 27歳
 *東京神田錦町の下宿錦水館に転居するが、再度下宿芳明館にもどった。多数の童話を執筆し、『二人の話』(のち『苦の世界』の第2節)を雑誌「大学及大学生」に発表した。
 *葛西善蔵が最初は長男、約1週間後に弟勇蔵を連れて訪ねてきた。〔『文学の三十年』参照。〕
 *米騒動の渦中で『屋根裏の法学士』を雑誌「中学世界」に発表。
 *東京本郷弓町の従兄弟(入江憲治の子)の下宿に居候し『蔵の中』を執筆した。〔広津和郎が新潮社社長の佐藤義亮から近松秋江の質屋通いの話を聞き、浩二に小説の題材として提供した。『蒲団の中』参照。〕
 *浅草の中川嘉蔵方に居候した。〔『枯野の夢』『人心』参照。〕
 *三保の松原を旅行、旅先に広津和郎を呼び寄せた。
* 1919年(大正8年) 28歳
 *東京牛込神楽坂の下宿神楽館に転居し、本多家から母を呼び寄せ広津和郎も同居した。この頃、しばしば江口渙と会った。〔『文学の三十年』参照。〕
 *『蔵の中』を「文章世界」(編集長加能作次郎〔『文芸よもやま談義 加能作次郎の一生』参照。〕)に発表。〔広津和郎とともに生田長江のもとに行き当初は雑誌「中外」に発表されるはずであったが「中外」が廃刊となってしまったので「文章世界」に掲載されることになった。菊池寛東京日日新聞で『蔵の中』を「宛然大阪落語」だと批評すると、宇野は葉書に「僕のが大阪落語なら、君の歴史小説は新講談だ」と書いて菊池に送った。広津和郎『宇野の処女作「蔵の中」』『「蔵の中」物語』参照〕
 *訪ねてきた葛西善蔵が相馬泰三の書いた『隣人』を読み、興奮のあまり持病の喘息をおこし浩二の部屋で寝付いてしまった。病後、葛西から借金借り入れの斡旋を頼まれ改造社の横関愛造を訪ねた。〔『文学の三十年』、葛西善蔵『仲間』参照。〕
 *江口渙の出版記念会で芥川龍之介に紹介され、佐藤春夫に再会した。〔『文学の三十年』参照。〕
 *『苦の世界』を『解放』に発表、新進作家として文壇的地位を確立した。
 *原稿執筆のために広津和郎・谷崎精二とともに下諏訪に旅行し芸者鮎子〔本名原とみ。芸者屋梅の家の主人だった叔母の養女となり、3人の芸者を抱えながら自分も芸者に出ていた。当時旦那持ちで1歳の子供もいた。いわゆる諏訪物(ゆめ子物)と呼ばれる『人心』『甘き世の話』『夏の夜の夢』『一と踊』『心中』『山恋ひ』などに登場する女性。鮎子とはプラトニックな関係を保ち男女の関係にはならなかった。〕と知り合った。
 *横浜で西洋人(弁護士?)の小間使になっていた伊沢きみ子が殺鼠用の毒団子を食べて自殺(事故死?)した。〔『人心』参照。〕
* 1920年(大正9年) 29歳
 *谷崎精二とともに下諏訪に旅行し鮎子と会い、その姐芸者である小竹〔本名村田キヌ。東京浅草の太物問屋の生まれ。幼いときに両親に死別し浅草の芸者屋に養女にやられ、後に八王子・下諏訪の芸者屋に売られてしまう。そこで芸者屋・新三春家の看板を買って主人となる。異母の妹が2人いて、1人(鈴木コウ)は魚屋に嫁ぎ(『器用貧乏』『自分一人』参照)他の1人(作中ではお半・るい子)は九州に攫われ私生児を産んだ。『甘き世の話』参照。鮎子との場合とは異なり、小竹とは男女の関係をもったようである。〕とも知り合った。
 *鵠沼の東屋にもしばしば出かけ、里見弴〔『里見弴』参照。〕・久米正雄・芥川龍之介・佐藤春夫・佐佐木茂索大杉栄・江口渙らと過ごした。〔『文学の三十年』参照。〕
 *東京牛込袋町都館に母とともに下宿した。
 *小竹(村田キヌ)が下諏訪から押しかけてきて浩二と結婚した。〔『一と踊』参照。浩二は小竹との結婚後もしばしば下諏訪を訪れ、鮎子とのプラトニックな恋愛を持続させた。〕
 *江口渙の紹介で江口渙の借家と背中合わせの東京上野桜木町の借家に母とともに転居した。〔『文学の三十年』参照。〕
 *母の兄・福岡正朔の後妻の子・公吉が通学のために寄宿した。〔『従兄弟の公吉』参照。〕
 *直木三十五のすすめで里見弴・菊池寛・久米正雄・芥川龍之介・田中純らと京都経由で大阪に講演旅行(浩二は講演せず)に行った後、芥川龍之介とともに京都経由で下諏訪に旅行し鮎子に会い、諏訪市内の花松館で活動写真を観た。〔芥川の佐々木茂索宛書簡に「白玉のゆめ子を見むと足びきの山の岩みちなづみてぞ来し」とある。また、「あなたの様な人にお茶を汲んでもらったりすると嬉しい・・・・すっかり好きになった、宇野の前ではいはれないが、顔が赤くなる・・・」という内容の手紙を鮎子に送っている。後年(戦後)、鮎子は子供を連れて芥川夫人のもとを訪れ、この手紙と引き換えに借金の申し出をするが断られた。(芥川文『追想芥川龍之介』)『文学の三十年』、『芥川龍之介』参照。〕
 *銀座の台湾喫茶店女給星野玉子〔玉子の母(玉子は実は祖母だと言っていた)・たもつは元旗本の娘だが明治維新で没落し吉原の娼妓となった。歌舞伎俳優11代片岡仁左衛門に見染められ結婚したが離婚し、その後懇意にしていた7代沢村宗十郎が某女に産ませた玉子を引き取って養育した。(あるいは片岡仁左衛門との離婚の原因は、たもつと沢村宗十郎との密通で、たもつの私生児だった女優某の娘が玉子とも考えられる。)したがってたもつは玉子の母でも祖母でもない可能性がある。当時、玉子は或る老人の妾となっていた。玉子物と呼ばれる『見残した夢』『人さまざま』『四方山』『子の来歴』参照。〕と知り合った。
* 1921年(大正10年) 30歳
 *人間社の経営に失敗した直木三十五〔『文学の三十年』参照。〕とともに下諏訪に旅行し鮎子に会った。
 *広島晃甫とともに東京青山の佐藤春夫の家を訪ねた。〔『文学の三十年』参照。〕
 *玉子とともに伊香保(大仁?)に旅行した。このとき、見送りに来た玉子の祖母(?)・たもつに会った。〔浩二は妻や母に隠して玉子と連絡するために、しばしば従弟の公吉を使った。〕
 *母・妻が大阪へ旅行している間、玉子を自宅に呼び寄せた。
 *玉子から妊娠を告げられた後は玉子の家を訪れることが間遠になっていった。
 *ドイツから寄贈された大洋丸で里見弴・久米正雄〔『寂しがり屋』参照。〕・直木三十五・加能作次郎・佐佐木茂索と横浜から京都・小倉・福岡などを経由して長崎へ旅行、途中神戸から片岡鉄兵が参加した。〔『文学の三十年』参照。〕
 *この頃、しばしば芥川龍之介と会い、食事などをともにした。
 *この頃、しばしば鵠沼の東屋に出かけ、里見弴・久米正雄・芥川龍之介・佐藤春夫・佐々木茂索・大杉栄らと同宿した。〔『痴人の愛』のナオミのモデルであった谷崎潤一郎の夫人千代子の妹せい子も同宿したことがあった。また浩二は佐藤春夫から谷崎夫人千代子への恋情を切々と語られることもあった。〕近くに借家住まいをしていた江口渙・中村武羅夫を訪ねた。
* 1922年(大正11年) 31歳
 *『恋愛合戦』の装丁を依頼するために東京道玄坂の佐藤春夫の家を訪ねた。〔『文学の三十年』参照。〕
 *玉子が東京渋谷道玄坂下の家で長男守道を出産、祖母が自宅で鶏を飼って地玉子を販売する一方、玉子はカフェを開業した。
* 1923年(大正12年) 32歳
 *直木三十五とともに行った東京富士見町の待合で芸者村上八重〔母の家出と父の病死のためブリキ職人である祖父の後妻(義理の祖母)に名古屋で養育される。上京し叔母の世話で新橋や九段の芸者となるが、旦那の後援で叔母から看板を分けてもらって独立、富士見町に芸妓屋「新住吉」を開業する。その後、改めて新しい旦那(近江長浜出身の人で、八重からは「月給さん」と呼ばれていた)をもつが浩二との関係が知られて別れることとなる。『晴れたり君よ』『四方山』『湯河原三界』『千万老人』『如露』『思ひ川』『相思草』参照。〕と知り合った。
 *直木三十五とともに下諏訪に旅行し鮎子に会った。
 *東京本郷菊坂の菊富士ホテルに仕事場をもち〔この数ヶ月前に上野公園そばの貸間専門のビルに秘密の仕事部屋を借りていた可能性がある。〕、八重と折半で買った道具類を置いてしばしば八重と会い、高田保・三宅周太郎・増富平蔵・石川淳・田中純・広津和郎・直木三十五らと交わった。〔『文学の三十年』参照。〕
 *『子を貸し屋』を雑誌「太陽」に発表。
 *時事新報の文芸欄の談話を取材に来た川崎長太郎と菊富士ホテルで会い、以後しばしば訪ねてくるようになった。〔『文学の三十年』参照。〕
 *谷崎精二の紹介で田畑修一郎が早稲田大学の座談会への出席を依頼しに訪れ、以後しばしば訪ねてくるようになった。〔『文学の三十年』参照。〕
 *関東大震災に被災し〔偶然、市谷界隈で直木三十五に、靖国神社境内で八重に出会った。〕寛永寺境内・田端の室生犀星宅に避難する。被災した中川嘉蔵が訪ねてきた。〔『震災文章』参照。〕
 *浩二の家を出て本多義知の子・重造宅などに寄宿していた公吉が大阪へ帰った。
 *牧野信一が中戸川吉二とともに雑誌「随筆」の原稿を依頼に訪れた。〔『文学の三十年』参照。〕
 *名古屋で八重と待ち合わせ京都・大阪・奈良を旅行した。
 *玉子・たもつ・守道は東京祐天寺に転居、玉子のカフェ勤めで生活した。
* 1924年(大正13年) 33歳
 *薄田泣菫に会うために芥川龍之介と大阪に旅行した。
 *八重が東京富士見町に新築した芸者屋「新住吉」に仕事部屋をもち、通うようになった。
 *東京上野桜木町内の永瀬義郎の近所に転居、旧居には葛西善蔵の紹介で牧野信一が移ってきた。
 *八重と伊香保・榛名山・四万温泉・磯部温泉を旅行した。
 *葛西善蔵に金策を相談され、葛西の原稿料を前借するために葛西とともに世紀社を訪ねた。〔『文学の三十年』参照。〕
 *兄・崎太郎〔『足りない人』参照。〕を神戸の本多家から引き取った。
 *葛西善蔵と同居していたハナが訪ねてきて、自らを「おせい」と名乗り葛西の滞在している日光に行くといった。〔『文学の三十年』参照。〕
* 1925年(大正14年) 34歳
 *八重と神戸・大阪・奈良・熱海を旅行した。
 *八重と山中・山代・和倉・赤倉・別所温泉を旅行した。
* 1926年(大正15年・昭和元年) 35歳
 *里見弴・菊池寛・佐藤春夫とともに報知新聞の客員となり長編小説を執筆することになって、以後約1年間月給が入るようになった。〔『文学の三十年』参照。浩二は『魔都』(後に『出世五人男』と改題)を執筆した。〕
 *八重と東山温泉(ここで愛人と逗留していた八重の叔母に会った。『思ひ川』参照)で落ち合って塩原温泉まで旅行した。
 *八重と修善寺・湯ヶ島・伊東を旅行、この直後「新住吉」の抱え芸者が逃亡し経営が悪化した。
 *母と箱根熱海を旅行、帰途母と別れて鵠沼の芥川龍之介を訪ねた。〔当時、芥川龍之介は激しい神経衰弱に陥っていたが、浩二自身も自らの神経衰弱を自覚していた。『芥川龍之介』参照。〕
 *八重と湯河原を旅行した。
* 1927年(昭和2年) 36歳
 *『日曜日あるひは小説の鬼』を雑誌「新潮」に発表(浩二を文学の鬼と呼称するのはこの作品にも由来している)。
 *しばしば田端に芥川龍之介を訪ねた。
 *精神に変調をきたし〔原因は梅毒説(永瀬義郎)、創作の行き詰まり説、妻キヌと村上八重との板挟み説、プロレタリア文学台頭説(川崎長太郎)などいろいろ取り沙汰されていた。『宇野浩二回想』『作家のおもかげ』(永瀬義郎・徳田一穂・谷崎精二・広津和郎・上林暁の文章)参照。保高徳蔵「怖るべき文壇」(『作家と文壇』所収)、広津和郎『年月のあしおと』「あの時代 芥川と宇野」(『同時代の作家たち』所収)参照。〕、母や八重、永瀬義郎などに伴われて箱根に静養に行く(途中、小田原の料理屋で突然薔薇の花を食べた)が数日で帰京した。
 *広津和郎・芥川龍之介・永瀬義郎らの配慮で斎藤茂吉〔『斎藤茂吉の面目』参照。〕の紹介を得て王子の小峰病院に入院した。(70日入院。入院中に芥川龍之介が自殺した。〔『芥川龍之介』参照。〕)
* 1928年(昭和3年) 37歳
 *静養のため母と箱根に旅行、小田原に帰郷していた牧野信一〔『夢の通ひ路』『文芸よもやま談義 牧野信一の一生』参照。〕としきりに会った。
 *病気中引き上げていた菊富士ホテルに再度仕事場をもった。
 *八重が新たに旦那〔白川伸十郎。「新住吉」の抱え芸者が逃亡し経営が悪化したときの事後処理や「新住吉」建築の際の借金返済などをして八重の面倒を見、八重に浩二との絶縁を迫ったようである。〕をもったため不和になり絶交した。
* 1929年(昭和4年) 38歳
 *脳貧血をおこし重態となり再び小峰病院に入院した。(約10ヶ月入院。入院中にキヌに玉子と隠し子守道のことを告白した。)〔このとき病因がジフィリスによる進行性麻痺の誇大型であったとわかり、ジフィリス根絶のためマラリア療法を受けたようである。〕
* 1930年(昭和5年) 39歳
 *明治・大正の日本文学を耽読し、しきりに童話を執筆した。
 *東京京橋木挽町の直木三十五の家で偶然八重に再会し、八重が旦那持ちのまま交際が復活した。〔この頃の八重との関係は諏訪の鮎子と同じくプラトニックな恋愛関係で、浩二独特の恋愛態度であった。〕
* 1931年(昭和6年) 40歳
 *しきりに童話を執筆した。
 *徳田秋声の還暦祝賀会に出席した。
 *この頃から頻繁に八重と日記の交換や逢引を重ねるようになった。八重が旦那の援助を得て九段で茶屋「三楽」の経営を始めた。〔八重の旦那白川伸十郎の連れてくる客、浩二の友人である鍋井克之など美術・演劇・映画関係の客などで繁盛した。〕
* 1932年(昭和7年) 41歳
 *妻キヌの希望で玉子との間にできた守道を引き取った。
 *画家小出楢重〔浩二は友人鍋井克之の紹介で楢重との交際を始め、大阪の楢重の家を訪ねたり文通をしたりして小説の挿絵も依頼した。〕をモデルにした病後第1作『枯木のある風景』を『改造』の記者・上林暁(本名・徳広厳城)〔浩二が大患となった後の1928年(昭和3年)から病後第1作である『枯木のある風景』を書き上げる1932年(昭和7年)までの期間を記者として見守り続けた人物であった。『文学の三十年』参照。〕に渡したが、従来の饒舌な文体が一変して枯れた作風になった。
* 1933年(昭和8年) 42歳
 *守道とともに千葉県鵜原の別荘にいた高鳥正を訪ね、小湊で川端康成夫妻と会食、その後守道と筑波山を周遊した。
 *嘉村磯多〔『終の栖』参照。〕・中山義秀・川崎長太郎・田畑修一郎らが浩二を囲んで「最近の仕事を祝う会」(後の「日曜会」)を始めた。
 *広津和郎とともに「文学界」同人となった。
 *嘉村磯多の病床を見舞った。
 *嘉村磯多が結核性腹膜炎で病死した。
* 1934年(昭和9年) 43歳
 *直木三十五が肺結核で病死した。(浩二は病床にあって告別式に参列できなかった。)
 *島崎藤村徳田秋聲・近松秋江・広津和郎・佐藤春夫らとともに内務省警保局松本学の主宰する文芸懇話会に参加、島木健作の『獄』をめぐり文芸懇話会賞問題がおきた。
 *所得税申告の件で厩橋税務署長であった長沼弘毅と知り合い、以後親交を結んだ。
 *広津和郎・横光利一小林秀雄らと『嘉村磯多全集』を編集した。(実際上の編集はほとんど全て浩二がおこなった。)
 *諏訪(原とみと再会した〔原とみは以前は鮎子という芸者名であったが、子を亡くした後の芸者名は夢ニと改めていた。『夢の跡』参照。〕)・下呂・飛騨高山を旅行した。
 *しきりに評論・随想風の文章を発表した。
* 1935年(昭和10年) 44歳
 *母・キョウが死去した。〔『人間同志』参照。〕
* 1936年(昭和11年) 45歳
 *牧野信一が小田原の家で縊死した。
 *東京浅草稲荷町(現在の台東区松が谷)の広大寺に先祖代々の墓を建立し母の骨を納めた。(母の喉仏は大阪一心寺の骨仏にした。)
* 1937年(昭和12年) 46歳
 *第一書房の中山省三郎と交渉して『牧野信一全集』の編集に尽力した。
 *斎藤茂吉らとともに長野県富士見で島木赤彦建碑式に参列した。
 *鍋井克之中川紀元と「三楽」でしばしば三人の会を開いた。八重とは東京吉祥寺の「いなか」などで逢引を重ねた。
* 1938年(昭和13年) 47歳
 *芥川賞選考委員に選ばれた。〔第7回芥川賞を受賞した中山義秀の『厚物咲』を強く推した。〕
 *治安維持法違反で拘留後の江口渙に原稿料を得させるために宇野浩二名で童話の要約を執筆させた。
 *天王寺中学の同窓である坂口常三郎をモデルにした『楽世家等』を発表、後にモデル問題となった。
 *評伝『ゴオゴリ』を発刊。
* 1939年(昭和14年) 48歳
 *近松秋江の病気療養費を調達するために徳田秋声・正宗白鳥上司小剣らと『近松秋江傑作選集』を編集した。(実際上の編集はほとんど全て浩二がおこなった。)
 *妻の異母妹・鈴木コウをモデルにした『器用貧乏』を発表。
* 1940年(昭和15年) 49歳
 *小田原で牧野信一の墓参をし川崎長太郎とともに箱根強羅に中山義秀を訪ねた。
 *菊池寛賞を受賞した。
* 1941年(昭和16年) 50歳
 *甲府に行き湯村温泉で熊王徳平らに会った。
 *加能作次郎が死去し告別式に参列した。
* 1942年(昭和17年) 51歳
 *田畑修一郎・中山義秀とともに箱根に旅行、小田原で川崎長太郎と会い牧野信一の墓参をした。
 *上高地に旅行、松本で東京帝大卒の北沢喜代治を訪ね、浅間温泉で座談会に参加した。
 *「日曜会」の旅行で川崎長太郎・倉橋禰一・渋川驍・高鳥正・石光葆らと箱根底倉温泉に行った。
 *この頃、大阪を拠点にしばしば大和各地を旅行した。
* 1943年(昭和18年) 52歳
 *「日曜会」10周年記念会を東京築地で開き、田畑修一郎・中野重治徳永直らが参加した。
 *中山義秀従軍歓送会に出席した。
 *田畑修一郎が盛岡の旅行先で急性盲腸炎で死去した。
 *守道が学徒出陣で駒場の近衛輜重兵第二連隊に入隊した。
* 1944年(昭和19年) 53歳
 *兄・崎太郎が死去した。
 *山梨県増穂町に行って、治安維持法違反容疑で捕らえられ釈放されていた熊王徳平に会った。
 *盛岡に佐藤善一を訪ねた。
 *香川県豊浜にある船舶兵幹部候補生隊の学校に入学する守道を東京駅で見送った。
 *妻とともに長野県松本に行き北沢喜代治らに会った。
 *宇野家伝来の日本刀を改装した軍刀を守道に渡すために香川県豊浜へ行った。
 *中山義秀とともに横須賀の海軍運輸部に荷物運搬夫として徴用されていた川崎長太郎を訪ねた。
 *妻が隣組の防空訓練や配給品受取・家事に忙殺され心臓弁膜症を病んだ。
* 1945年(昭和20年) 54歳
 *鈴木コウが空襲で焼け出されて訪ねてきた。
 *兄・崎太郎の喉仏を一心寺の骨仏に納めるため大阪に行き、織田作之助鍋井克之藤沢桓夫と会った。
 *北沢喜代治の紹介で妻とともに長野県松本郊外(東筑摩郡島立村蛇原)の農家の2階に疎開、妻の病気のため配給品の受け取りや買出しなどに奔走した。〔『思ひ草』『うつりかはり』参照。〕
 *守道が復員し、青木富子との結婚について相談された。
 *北沢喜代治の紹介で松本市内(松本市今町の女鳥羽橋近辺)の造り酒屋(「夫婦松」の醸造元)の離れに転居した。
 *守道が上京し復員援護局に勤務、復員船に乗って佐世保と上海を往復した。
 *妻の病状が悪化し配給品受取や家事に忙殺されるようになった。
* 1946年(昭和21年) 55歳
 *妻の病状が悪化したので看護婦を雇い、鈴木コウを看病のため松本に呼んだ。
 *妻が病死した。
 *北沢喜代治夫妻の媒酌で守道が松本で青木富子と結婚式を挙げた。
 *守道が復員の仕事で単身赴任したため、鈴木コウや富子との3人暮らしとなった。
 *東京神田の虹書房の記者をしていた水上勉と初めて会った。
 *しばしば上京し本郷森川町の双葉館に滞在、広津和郎・正宗白鳥・中野重治なども投宿した。
 *八重〔1945年(昭和20年)3月の空襲で「三楽」が焼失したために吉祥寺の林半造(妻子持ちの男だったが、旦那・白川伸十郎に内密で1944年に約1年間、「三楽」で一緒に住んでいたことがあった)を頼り借家に身を寄せていた。また7月には長年の旦那・白川伸十郎とは縁を切った。〕と再会、しばしば双葉館を訪ねてくるようになった。
* 1947年(昭和22年) 56歳
 *ピリン疹・筋肉痛を病み、医師本多良静の治療を受けた。(このころ水上勉が原稿の口述筆記をした。)
 *富子が松本で孫・和夫を出産した。
 *戦後初の「日曜会」に参加、川崎長太郎・上林暁渋川驍・石光葆らが集まった。
 *松本に行き、北沢喜代治らに会った。
* 1948年(昭和23年) 57歳
 *松本の家を引き払い、医師本多良静の紹介で東京文京区森川町に家を購入し移り住み、鈴木コウに家事を託した。守道一家が同居を望んだが拒否した。
 *水上勉とともに横須賀・鎌倉を訪ねた。
 *下諏訪で鮎子と再会し、1920年(大正9年)の芥川龍之介の鮎子宛書簡を見せてもらった。〔『芥川龍之介』参照。〕
* 1949年(昭和24年) 58歳
 *水上勉とともに湯河原・熱海に旅行した。
 *広津和郎とともに芸術院会員となった。
 *芥川賞が復活し選考委員となった。〔選考姿勢はつねに厳しく該当作なしと主張することが多かった。〕
 *天皇の陪食に招かれ、斎藤茂吉・高浜虚子・広津和郎らと文学談をかわした。
 *鈴木コウが三河島の弟の家に転居、その後にきた家政婦とうまくいかなかったため守道のすすめで玉子〔守道を浩二のもとに養子にやった後に請負師をしていた男と結婚し築地に住んでいたが、そこで母・たもつが亡くなり、夫も1949年に亡くなっていた。〕が同居した。
 *盛岡で佐藤善一と落ち合い、十和田湖を旅行した。
* 1950年(昭和25年)59歳
 *北海道に旅行、途中盛岡で佐藤善一に会った。〔佐藤善一『わたしの宇野浩二』参照。〕
* 1951年(昭和26年) 60歳
 *富子が孫・友子を出産した。
 *『大阪人間』発表、モデルとされた阪口常三郎から告訴された。(示談で和解が成立したが、作品は未完となった。)
 *松川事件の被告らが書いた「真実は壁を透して」を読み松川事件に関心をもち、広津和郎に紹介した。
 *二月堂のお水取りの行事をみるために奈良に行った。
 *玉子とともに下関に行き、その後劉寒吉と九州(小倉・大牟田・島原・雲仙・三角・熊本・阿蘇・別府・門司)を旅行した。
 *正式に玉子と結婚した。
* 1952年(昭和27年) 61歳
 *劉寒吉らと九州(小倉・鹿児島・宮崎・門司)を旅行、鹿児島で椋鳩十、宮崎で中村地平に会った。
 *盛岡で佐藤善一に会い、その後十和田湖を旅行した。
 *石川県羽咋郡西海村の加能作次郎文学碑除幕式に広津和郎・青野季吉とともに参列した。
* 1953年(昭和28年) 62歳
 *広津和郎らとともに仙台高等裁判所で松川事件の公判(第二審)を傍聴し事件の現場を視察した。〔『世にも不思議な物語』『当て事と褌』参照。〕
 *最初の喀血をした。
* 1954年(昭和29年) 63歳
 *病気療養。守道が看護のため上京した。
 *劉寒吉・原田種夫らと九州(小倉・長崎・博多)を旅行、長崎で渡辺庫輔に会い、浩二が生まれた福岡市南湊町を訪ねた。
* 1955年(昭和30年) 64歳
 *再び喀血した。
 *劉寒吉・原田種夫・宮崎耿平らと九州(小倉・大牟田・島原・小浜温泉・加津佐・天草・熊本・阿蘇)を旅行した。〔『晩秋の九州』参照。〕
* 1956年(昭和31年) 65歳
 *青野季吉・保高徳蔵らとともに下諏訪で御柱祭を見物した。
 *中国人民対外文化協会の招きで、守道が付き添い青野季吉久保田万太郎らと中国を旅行した。
* 1957年(昭和32年) 66歳
 *劉寒吉らと九州(小倉・熊本・島原・雲仙・有田・佐賀・門司)を旅行、熊本で荒木精之、有田で永竹威に会った。
 *山梨県増穂町に熊王徳平を訪ねた。
* 1958年(昭和33年) 67歳
 *再々度喀血した。
 *劉寒吉らと九州(博多・柳川・長崎・佐賀・博多・小倉・若松)を旅行した。
* 1959年(昭和34年) 68歳
 *病床で過ごすことが多かった。
* 1961年(昭和36年) 70歳
 *水上勉とともに湯河原に旅行、玉子・守道も同行した。
 *松川事件の全員無罪判決を聞いて広津和郎に祝電〔電文「ヒロツクンイマワユウコトバナシ オメデトウヨロコンデバンザイ ゴケンショウヲイノル ウノコウジ」〕を打った。
 *大量に喀血し死去。熱海から上京した広津和郎が双葉館に泊まり通夜・告別を行なった。
* 1963年(昭和38年)
 *玉子が病死した。
* 1966年(昭和41年)
 *八重が病死した。
墓所は、東京都台東区松が谷一丁目の浄土宗満泉山広大寺にある。法名・文徳院全誉貫道浩章居士。この墓には母・キョウ、兄・崎太郎、先妻・キヌ、後妻・玉子も埋葬されているが、父・六三郎の墓はない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「宇野浩二」の詳細全文を読む




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