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長沼弘毅 : ミニ英和和英辞書
長沼弘毅[ながぬま こうき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
: [ぬま]
  1. (n,n-suf) swamp 2. bog 3. pond 4. lake 

長沼弘毅 : ウィキペディア日本語版
長沼弘毅[ながぬま こうき]
長沼 弘毅(ながぬま こうき、1906年11月21日 - 1977年4月27日)は、日本大蔵官僚実業家文芸評論家である。東京出身。経済学博士であり、柔道家講道館七段)であった。孫に俳優平沼成基など。
== 来歴・人物 ==
東京府立一中(のち都立日比谷高校)では、同期に刑部人ら。一中では目黒真澄の英語の授業や、柔道など体育の授業に親しみ、旧制静岡高校時代にシャーロック・ホームズなどの探偵小説に出合う。また静高時代に生涯の盟友となる塚本憲甫と知り合う。この頃、柔道五段の腕前となる。1929年東京帝国大学法学部卒業大蔵省入省。入省同期に福田赳夫前尾繁三郎吉村成一など。
「一高・東大にあらずんば人でなし」という当時根強かった省内空気にあり傍流派にあったが、勧銀出身の馬場鍈一蔵相時代に入ると時の軍部の動きと連動した革新運動のさなか大幅な人事刷新が行われ、山田龍雄が主税局長(のち逓信次官)に、松隈秀雄(のち大蔵次官)は主税局国税課長に、長沼は銀行局事務官から蔵相秘書官にそれぞれ抜擢された。同時に、省内主流派の津島壽一次官が退任、賀屋興宣主計局長が理財局長に、石渡荘太郎主税局長が内閣調査局調査官、青木一男理財局長が対満事務局次長へ異動となったが、主に長沼がこれらの刷新策を練り上げたものだといわれた〔『長沼弘毅』(長沼弘毅追悼録、長沼源太発行、1978年5月30日) P22 ~ 〕。
その後、馬場の内務大臣就任と共に内相秘書官となったが、馬場も急逝。大蔵省では興銀出身の結城豊太郎が蔵相に担がれ、山田龍雄は大阪造幣局へ、広瀬豊作や長沼らも飛ばされ、長沼も広東へ異動となった〔『長沼弘毅』(長沼弘毅追悼録、長沼源太発行) P34 ~ 〕。1938年12月、南支海軍特務部、翌1939年9月、興亜院華中連絡部書記官〔書記官とは課長の当時の官名。〕・広東初代事務所長に着任し、支那服をまとって、主に中南支方面で特務工作任務を担う“長沼機関”を作った〔『長沼弘毅』(長沼弘毅追悼録、長沼源太発行) P169 〕。この頃に里見甫らと知己となる。日本軍の隠れ蓑として上海にあった里見の宏済善堂を通じた阿片売買を、岡崎嘉平太(当時大東亜省参事官)らと終戦間際になって止めさせようとしたが、塩沢清宣(陸軍大佐・特務部員、元侍従武官、のち中将)から干渉が入り頓挫した〔『阿片王 満州の夜と霧』(佐野眞一新潮社、2005年11月30日) P166〕。
1941年6月、大蔵省預金部資金運用課長に。1943年11月、軍需省総務部総務課長となり、省内全般を取り仕切る。1944年12月、専売局塩脳部第一課長に。軍需省から本省へ帰る時、石渡荘太郎が長沼の能力を買っていたため、その引きがあったといわれている〔『長沼弘毅』(長沼弘毅追悼録、長沼源太発行) P49 ~ P50〕。続いて1945年9月に塩脳部長となり、のちの次官時代に官房長を務める森永貞一郎を塩脳部第一課長に引っ張ってくる。塩脳部では、国民生活に欠かせない塩の突貫輸送を敢行し、また自給製塩の創設に携わった。管理局長では、GHQとの交渉で、膨大な終戦処理費の使用や、台湾銀行朝鮮銀行などの外地の銀行の資産の始末をはじめとする在外財産問題や、連合軍財産、ドイツ財産問題に携わる〔『長沼弘毅』(長沼弘毅追悼録、長沼源太発行) P9 ~〕。またこの管理局長時代には、ホームズ研究で警視庁の刑事(デカ)らが長沼の部屋に頻繁に駄弁り(だべり)にきていた〔『長沼弘毅』(長沼弘毅追悼録、長沼源太発行) P108〕。
1949年大蔵次官となる。在任中、大蔵事務次官に改称。池田勇人蔵相の下、「朝から酒飲んでるやつに頭のいいやつがいるわけない」と言ったのがゴシップとして騒がれ、自ら辞表を提出し大蔵省退官。理由として、池田は公職追放になるべきなのを生き残り、上がいなくなって次官に就任した。その次官時代から池田のいいところが出たが、それまでは小心翼翼としてどうにもならない官僚だった。それゆえ池田を内心では尊敬していなかったのが大きな理由だといわれていた〔『長沼弘毅』(長沼弘毅追悼録、長沼源太発行) P47 ~ P48〕。
1958年3月31日 - 1959年4月17日 公正取引委員会の委員長。1961年2月 首相の諮問機関として総理府に設置された「公営競技調査会」の会長に就任。同年7月に公営競技調査会会長として、「公営競技に関する現行制度と今後の基本的方策についての答申の件」(いわゆる「長沼答申」)を取りまとめ、池田首相に提出。公営競技の規模について、現状維持の方向を打ち出す。1960年1月27日、法学部出身ながら『最低賃金に関する若干の考察』で早稲田大学から経済学博士号を授与された。その他、随筆集に『平行線』があり、『和漢の散歩』では、松尾芭蕉与謝蕪村李白杜甫などの詩形をそっくりそのまま俳句に取り込んでいるとしている〔『長沼弘毅』(長沼弘毅追悼録、長沼源太発行) P35 〕。
管理局長時代の部下であった以来親交のあった高木文雄の結婚の仲人。また大蔵省以来の親睦を兼ねた「長沼会」は、森永貞一郎、庭山慶一郎村上一小川潤一らが構成員だった〔『長沼弘毅』(長沼弘毅追悼録、長沼源太発行) P108など〕。
その後は日本コロムビアの会長。日本のシャーロキアンの草分けで、ベイカー・ストリート・イレギュラーズの唯一人の日本人会員だった。また、江戸川乱歩賞選考委員を第一回から第十四回まで務める。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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