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葛西善蔵 : ミニ英和和英辞書
葛西善蔵[かさい ぜんぞう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くず]
 【名詞】 1. (Japanese) arrowroot 
西 : [にし]
 【名詞】 1. west 
: [ぜん]
 【名詞】 1. good 2. goodness 3. right 4. virtue 
: [そう, くら, ぞう]
 【名詞】 1. warehouse 2. cellar 3. magazine 4. granary 5. godown 6. depository 7. treasury 8. elevator

葛西善蔵 : ウィキペディア日本語版
葛西善蔵[かさい ぜんぞう]

葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年明治20年)1月16日 - 1928年昭和3年)7月23日)は、日本の小説家である。青森県中津軽郡弘前松森町(現・弘前市)で当時米の仲買業をしていた父・卯一郎、母・ひさの長男として生まれた。姉二人(長女・いそ、次女・ちよ)と祖母・かよがいた。
== 来歴 ==
1889年(明治22年)、一家は北海道に移住、弟・勇蔵が生まれる。1891年(明治24年)、一家は青森県に移住する。1893年(明治26年)、青森県五所川原小学校に入学するが、一家の転居にともない碇ヶ関小学校に転校する。1902年(明治35年)、母・ひさが死去する。上京し新聞売りのかたわら夜学に通う。1903年(明治36年)、北海道にわたり鉄道の車掌や営林署で働く。
文学を志して上京し、東洋大学早稲田大学聴講生となるなかで、舟木重雄広津和郎たちと知り合い、同人雑誌『奇蹟』のメンバーとして迎えられる。1912年、『奇蹟』創刊号に「哀しき父」を発表して、作家としての力量を発揮した。
その後は、しばらく故郷と東京を往復しながら作品を書くも、生活は困難をきわめた。1919年に創作集『子をつれて』を新潮社から刊行し、作家としての地位を確立することはできたが、家族を養うことは難しく、それがその後の葛西の生活におおきな影響をもたらした。
1923年(大正12年)、持病の喘息の療養のため、鎌倉建長寺塔頭宝珠院の庫裏を借りて生活を始める。食事は茶店招寿軒に頼んでいたが、食事を運んでくれたのが招寿軒の娘の浅見ハナ(おせいさん)で、のちに同棲を始める。
40歳に近づく頃から生活も荒れ、執筆もほとんどが口述筆記となり、嘉村礒多がその任にあたった。晩年は東京の、現在の世田谷区三宿界隈に住んだが、肺病が重くなり、1928年(昭和3年)3月23日、41歳で死去した。戒名は「藝術院善巧酒仙居士」。弘前市徳増寺と、鎌倉市の建長寺塔頭の回春院にある。回春院の墓には従兄弟である北川清蔵および、1992年(平成4年)12月30日に92才で死去した浅見ハナも葬られている。
葛西の作品は、ほとんどが自らの体験に取材した〈私小説〉といってよいもので、そこに描かれた貧困や家庭の問題は、その真率さで読者に感銘を与える。一方、妻を故郷に置いたまま別の女性と同棲して、子もなしたことへの批判は当時から根強く、それへの反発が葛西の作品の底流にある。
生活の悲惨さのなかで、それを逆手にとったような葛西の文学には、人をひきつけるところがあり、それが葛西の作品を広めているところがある。破天荒かつ酒乱、生活破綻などと言われるが、死の床にも見舞い客はひっきりなしに訪れ、葬式には200人が集まった。弔辞は徳田秋声谷崎精二が務め、文壇では「葛西善蔵遺児養育資金」が集められ、志賀直哉佐藤春夫室生犀星といった面々が協力した。
故郷の弘前では、石坂洋次郎や戦後代議士となった津川武一が、葛西文学の顕彰のために力をつくした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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