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イワン・コロフ : ミニ英和和英辞書
イワン・コロフ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


イワン・コロフ : ウィキペディア日本語版
イワン・コロフ

イワン・コロフ"The Russian Bear" Ivan Koloff、本名:Oreal Donald Perras1942年8月25日 - )は、カナダオンタリオ州出身の元プロレスラー。第3代WWWF世界ヘビー級王者
北米での発音は「アイバン(アイヴァン)・コロフ」。生年は1936年ともいわれる〔『THE WRESTLER BEST 1000』P41(1996年、日本スポーツ出版社)〕。現役選手時代はロシアギミック悪役レスラーとして活躍し、日本では「ロシアの怪豪」「ロシアの雷帝」などの異名で呼ばれた。
== 来歴 ==
1965年1962年説もあり〔)、アイルランド人レッド・マクナルティ(''Red McNulty'')を名乗って地元のオンタリオにてデビュー〔。1967年9月にはこのリングネーム日本プロレスに初来日している(表記は「レッド・マクナッティ」)。1968年、髪を剃り上げてコサック帽とブーツを身につけたロシア人イワン・コロフ(''Ivan Koloff'')に変身〔。ハンス・シュミットエドワード・カーペンティアなどの大物と対戦して実績を積み、モントリオール地区のインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した。
1969年の下期よりWWWFに登場。キャプテン・ルー・アルバーノマネージャーに、ゴリラ・モンスーンビクター・リベラチーフ・ジェイ・ストロンボードミニク・デヌーチらを下してヒールとしてのステイタスを高め、1971年1月18日、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてブルーノ・サンマルチノを破り、第3代のWWWF世界ヘビー級チャンピオンとなる。翌月の2月8日にペドロ・モラレスに敗れ短命王者に終わったものの、約8年間に渡ってニューヨークの帝王に君臨していたサンマルチノから王座を奪ったことで一躍トップスターの仲間入りを果たした〔〔。
その後は元WWWF王者の肩書のもと各地で活躍。同年6月にはエース級の扱いで日本プロレスに再来日し、6月29日に東京都体育館にてジャイアント馬場インターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。7月1日にはダッチ・サベージと組んでBI砲インターナショナル・タッグ王座にも挑んだ〔。翌1972年AWAに参戦してビル・ロビンソンクラッシャー・リソワスキーと抗争、バーン・ガニアAWA世界ヘビー級王座にも挑戦した。1973年4月にはAWAとの提携ルートで国際プロレスに来日。4月18日に土浦にて、マッドドッグ・バションとのコンビでストロング小林&グレート草津からIWA世界タッグ王座を奪取。4月30日に足立区体育館にて草津&ラッシャー木村を退け初防衛に成功するが、5月14日に船橋で草津&木村に奪回された〔。シリーズ最終戦の5月15日には、大宮スケートセンターにてストロング小林のIWA世界ヘビー級王座にも挑戦している。
1974年NWAミッドアトランティック地区を主戦場に、5月10日にダン・ミラー、10月30日にポール・ジョーンズを破り、ミッドアトランティックTV王座を2度獲得。チャック・オコーナーリップ・ホークスーパー・デストロイヤージョニー・バレンタイン、そして若手時代のリック・フレアーらヒール勢と共闘し、ソニー・キング&タイガー・コンウェイ・ジュニアの黒人コンビやワフー・マクダニエルアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した。
1975年にWWWFを再度襲撃し、チャンピオンに返り咲いていたサンマルチノに連続挑戦。同年10月、新日本プロレスの『闘魂シリーズ第2弾』に後半戦特別参加で来日。グレッグ・バレンタインをパートナーに、アントニオ猪木坂口征二北米タッグ王座に挑戦した。以降も新日本の常連外国人となり、1976年9月3日には愛知県体育館にて、WWWFでの盟友スーパースター・ビリー・グラハムとの怪力コンビで坂口&ストロング小林の北米タッグ王座に再挑戦。同年末の来日では、12月2日に大阪府立体育館にて猪木のNWFヘビー級王座に挑んた。
1977年フロリダにて、ミスター・サイトーパット・パターソンとのタッグで活動。シングルでは5月24日にスティーブ・カーンを破り、フロリダ版のNWA南部ヘビー級王座を獲得したが、9月27日に因縁のペドロ・モラレスに再びベルトを明け渡している。その間の6月18日には、インディアナ州インディアナポリスディック・ザ・ブルーザーからWWA世界ヘビー級王座を奪取、以降もブルーザーを相手に同王座を巡る抗争を展開した。
この時期よりウエイトダウンを試み、重厚なパワーファイターから機敏性のあるラフファイターへの肉体改造を行う。以降、エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリングなど南部NWA圏を転戦しつつ、1978年にはMSGで新王者ボブ・バックランドWWFヘビー級王座にも挑戦するなど、NWAとWWFを股にかけて活躍。ジョージアでは1979年オレイ・アンダーソンとタッグを組み、トミー・リッチ&スタン・ハンセンなどのチームを破りジョージア・タッグ王座を再三獲得した。
モスクワオリンピックボイコット問題米ソの対立構造が激化した1980年代初頭は、ジョージアでアレックス・スミルノフ、フロリダでニコライ・ボルコフとロシア人タッグを結成し、ジョージアでは1980年4月24日にケビン・サリバン&トニー・アトラス、フロリダでは8月7日にジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコを破り、各地区のタッグ王座を獲得〔。フロリダではダスティ・ローデスバグジー・マグローを相手に、得意のロシアン・チェーン・マッチをはじめとする各種のデスマッチで抗争を展開するなど、大ヒールとなって観客をヒートアップさせた。
ミッドアトランティック地区では1981年2月22日、レイ・スティーブンスと組んでポール・ジョーンズ&マスクド・スーパースターからNWA世界タッグ王座を奪取。4月16日にはリッキー・スティムボートを破りミッドアトランティック・ヘビー級王座を獲得し、11月3日にはロン・バスからTV王座を奪取、以降もジミー・バリアントらとタイトルを争った〔。1983年よりWWFに復帰したが、翌年にスタートしたビンス・マクマホン・ジュニアの全米侵攻サーキットには参加せず、ビンス・マクマホン・シニアの引退とほぼ同時期にWWFを離脱。以降、WWEのリングには上がっていない〔。
1984年からは古巣のミッドアトランティック地区に定着し、ニキタ・コロフクラッシャー・クルスチェフとのロシア人ユニット、ザ・ラシアンズ(''The Russians'')を結成。若い彼らを指揮する「アンクル・アイバン(''Uncle Ivan'')」として、ロード・ウォリアーズロックンロール・エクスプレスと抗争を繰り広げた。その後もウラジミール・ペトロフ(アル・ブレイク)やパワーズ・オブ・ペイン(ザ・バーバリアン&ザ・ウォーロード)を配下に、同地区のプレイング・マネージャー的な存在となって活躍した。1988年下期からはベビーフェイスに転向、同年12月26日のスターケードではジャンクヤード・ドッグとタッグを組み、旧敵ポール・ジョーンズ率いるラシアン・アサシンズ(デビッド・シェルダン&ジャック・ビクトリー)と対戦した。
WCWへの移行期でもある1989年にNWAを離れ、1990年1月には全日本プロレスに来日、昭和の日本プロレス4団体制覇を果たした。1992年3月には「甥」のウラジミール・コロフ(カール・ブラントリー)を帯同し、W★INGに来日している。その後もアメリカやカナダのインディー団体への出場を続け、若手時代のキッド・キャッシュのマネージャーも務めたが1994年に引退〔。
引退後は新生キリスト教徒となり、長年の主戦場だったノースカロライナに居住。2007年には編集者との共著による自叙伝が出版された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「イワン・コロフ」の詳細全文を読む




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