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ゴリラ・モンスーン : ミニ英和和英辞書
ゴリラ・モンスーン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ゴリラ・モンスーン : ウィキペディア日本語版
ゴリラ・モンスーン[ちょうおん]

ゴリラ・モンスーンGorilla Monsoon1937年6月4日 - 1999年10月6日)は、アメリカ合衆国プロレスラー。本名ロバート・ジェームズ・マレラRobert James Marella)、通称ジノ・マレラGino Marella)。ニューヨーク州ロチェスター出身のイタリア系アメリカ人
そのプロレスラーとしてのキャリアのほとんどをWWWFで過ごし、現役時代は196cm、158kgの体格を活かしたパワーファイターとして活躍。引退後もWWFでビンス・マクマホンの片腕として要職を務め、バックステージのコーディネーターやテレビ放送の実況アナウンサーを担当。生涯をWWEに捧げた。1994年WWE殿堂入り。日本でのニックネームは「人間台風」。
 
== 来歴 ==

=== 現役時代 ===
コーネル大学ではレスリング部のキャプテンを務め、1958年NCAAの全米大会で優勝〔『THE WRESTLER BEST 1000』P30(1996年、日本スポーツ出版社)〕。その後もソビエト連邦への親善遠征チームのヘビー級代表になるなどして活躍した〔。大学卒業後、その実績と体格を見込まれ、1959年ジノ・マレラの名でデビュー。1963年4月に日本プロレスに初来日。同年8月、旗揚げ間もないWWWF(現WWE)に移籍し、ビンス・マクマホン・シニアから「満州出身の元アジア王者」ゴリラ・モンスーンリングネームを与えられ、怪人ヒールに変身した〔。モンスーンの由来は前述の「人間台風」(訳すとヒューマン・タイフーンとなる)がヒントになったという。
1963年10月、いきなりブルーノ・サンマルチノWWWF世界ヘビー級王座への挑戦者としてニューヨーク・デビュー。1か月後にはキラー・コワルスキーと組んでスカル・マーフィー&ブルート・バーナードを下しWWWF・USタッグ王座(世界タッグ王座の前身)に戴冠。さらにその数日後には再びサンマルチノに挑み、60分フルタイムドローの熱戦を繰り広げた。USタッグ王座は1965年ビル・ワットとのコンビでも、ジン・キニスキー&ワルドー・フォン・エリックを破り再度獲得している〔。1968年にはオーストラリアに遠征し、スパイロス・アリオンからIWA世界ヘビー級王座を奪取した。
サンマルチノの最大のライバルとして活躍後の1969年ザ・シークに襲われたところを、その宿敵サンマルチノに助けられ、彼との「友情ストーリー」を経てベビーフェイスに転向した〔。「満州出身」のプロフィールは削除され、ペドロ・モラレスがWWWF王者だった期間は、彼の通訳マネージャーとして活動。
1976年モハメド・アリアントニオ猪木の異種格闘技戦が決定すると(当時WWWFと新日本プロレスは提携関係にあった)、WWWFのリングに登場したアリに乱闘を仕掛け、エアプレーン・スピンを見舞っている〔。また翌年にはアンドレ・ザ・ジャイアントボクシング・マッチを行った〔。1980年ケン・パテラとのインターコンチネンタル王座と自身の引退を賭けた試合に敗れ、バロン・シクルナと引退試合を行い、リングを降りた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ゴリラ・モンスーン」の詳細全文を読む




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