翻訳と辞書
Words near each other
・ ペドロ・マリア・ザバルザ
・ ペドロ・マルチネス
・ ペドロ・マルティネス
・ ペドロ・マルティネス (曖昧さ回避)
・ ペドロ・マントラス
・ ペドロ・ミゲル・パウレタ
・ ペドロ・ムニティス
・ ペドロ・メンデス
・ ペドロ・モスケラ
・ ペドロ・モスケーラ
ペドロ・モラレス
・ ペドロ・モラレス (サッカー選手)
・ ペドロ・モレネス
・ ペドロ・ラウレンス
・ ペドロ・ラスカライン
・ ペドロ・ラスクライン
・ ペドロ・ラソ
・ ペドロ・ラミー
・ ペドロ・リリアーノ
・ ペドロ・ルイス・デ・オルレアンス・イ・ブラガンサ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ペドロ・モラレス : ミニ英和和英辞書
ペドロ・モラレス
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ペドロ・モラレス : ウィキペディア日本語版
ペドロ・モラレス

ペドロ・モラレスPedro Morales1942年10月22日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラープエルトリコクレブラ島の出身だが、少年期に家族と共にニューヨークブルックリンに移住。主にWWWFおよびWWFで活躍した。ニックネームは「ラテンの魔豹」。
ドロップキックの名手として知られ、日本では彼がジャイアント馬場にこの技を教え32文ロケット砲が誕生した、というエピソードでも有名〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P15(2002年、日本スポーツ出版社)〕。1970年代を代表する選手の一人である。
== 来歴 ==
1958年11月、WWWFの前身団体であるキャピトル・レスリング・コーポレーションにてデビュー〔。WWWF発足期の1963年には、バディ・ロジャースが保持していた世界ヘビー級王座にも挑戦した。ドロップキックを得意としていたように、若い頃は華麗な空中殺法の使い手として鳴らした。その後、彼のスター性に目をつけたフレッド・ブラッシーの仲介で、ブラッシーのホームリングだったロサンゼルスWWAに移籍。同団体のスター選手となり、1965年3月12日にザ・デストロイヤーからWWA世界ヘビー級王座を奪取。WWA世界タッグ王座も1966年6月から1967年12月にかけて、ブラッシー&バディ・オースチンなどのチームを破り通算6回に渡って獲得した。
1971年ブルーノ・サンマルチノに替わる新しいニューヨークの主役として、ビンス・マクマホン・シニアに呼び戻されWWWFに復帰。同年2月8日、マディソン・スクエア・ガーデンイワン・コロフを下し、第4代WWWF世界ヘビー級王者となる。以後、イタリア系のサンマルチノと同様、同郷の移民(米国内の200万人を越えるプエルトリコ系移民の50%以上はニューヨーク在住といわれる)からの熱狂的な支持を集めた。1972年9月30日には、サンマルチノを挑戦者にシェイ・スタジアムで防衛戦を行った(深夜23時以降の興行を禁止する州条例により、75分時間切れ引き分け)。その後も防衛戦を続け長期政権を築いたが、1973年12月1日、スタン・スタージャックに敗れ王座から陥落した〔。
1974年にWWWFを離れ、NWAサンフランシスコ地区やフロリダ地区、AWAなどで活躍。サンフランシスコではピーター・メイビアパット・パターソンと共闘し、ムーンドッグ・メインアンジェロ・モスカザ・ブルートらと抗争。AWAでは1977年上期にニック・ボックウィンクルAWA世界ヘビー級王座に再三挑戦、盟友ピーター・メイビアと組んでブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンAWA世界タッグ王座にも挑戦している。
フロリダでは因縁のイワン・コロフやパット・パターソン、ディック・スレーターラーズ・アンダーソンなどを抗争相手に南部ヘビー級王座やTV王座を争った。1977年9月1日にはマイアミに遠征してきた新WWWF世界王者スーパースター・ビリー・グラハムに挑戦し、10月にはセントピーターズバーグウェストパームビーチにてハーリー・レイスNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦。黒人レスラーのロッキー・ジョンソンとの有色人種コンビでも人気を博し、1977年9月にコロフ&パターソン、1978年1月にコロフ&ミスター・サイトーを破りフロリダ・タッグ王座を2度獲得している。
1980年よりWWFに戻り、8月9日の『ショーダウン・アット・シェイ』ではWWF王者ボブ・バックランドと組んでワイルド・サモアンズからWWFタッグ王座を奪取。同年12月8日にはケン・パテラを下しIC王座にも戴冠。WWE王座、IC王座、タッグ王座をすべて制覇した最初の選手となった。IC王座は1981年6月20日にドン・ムラコに敗れ一時陥落するも、11月23日に奪還に成功、以降1983年1月22日に再びムラコに奪われるまで、長期間に渡って保持した〔。
IC王座陥落後はプエルトリコに凱旋し、カルロス・コロンの主宰するWWCにて活動。1983年4月30日にはコロンとのコンビでメディックス(ホセ・エストラーダ&ジョニー・ロッズ)を破り、WWC世界タッグ王座を獲得。シングルでは同年6月25日にバディ・ランデル1984年3月23日にスウィート・ダディ・シキから北米ヘビー級王座を奪取している。
1985年ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下となったWWFに復帰。ニューヨーク、カリフォルニア、フロリダなど、かつての主戦場を中心に全米サーキットへ参加した。1986年4月7日の『レッスルマニア2』ではシカゴ大会で行われたバトルロイヤルに出場し、7万人を超える大観衆を動員した同年8月28日の『ザ・ビッグ・イベント』ではハーリー・レイスと対戦している。1987年の引退後は、WWFのスペイン語放送のカラー・コメンテーターも務めた。1995年には長年の功績をたたえ、WWF殿堂に迎えられた。
日本では1966年3月、日本プロレスに初来日し『第8回ワールドリーグ戦』に出場。ウイルバー・スナイダーと優勝戦進出を競った。1974年5月には全日本プロレスの『MSGシリーズ』に参戦し、ジャイアント馬場PWFヘビー級王座・MSG杯を争ったが敗退。1976年以降は新日本プロレスとWWWFとの提携路線に乗って新日本に登場し、アントニオ猪木とのNWFヘビー級王座戦や坂口征二との新日本版ワールドリーグ戦優勝戦などを戦っている。ワールドリーグ戦ではキラー・カール・クラップを相手に流血戦も演じた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ペドロ・モラレス」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.