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ドン・ムラコ : ミニ英和和英辞書
ドン・ムラコ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ドン・ムラコ : ウィキペディア日本語版
ドン・ムラコ

ドン・ムラコ"The Magnificent" Don Muraco、本名:Donald Muraco1949年9月10日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーハワイ州オアフ島のサンセット・ビーチ出身。
1980年代前半を全盛期に、主戦場のWWFにてボブ・バックランドペドロ・モラレスジミー・スヌーカハルク・ホーガンリッキー・スティムボートらトップスターと抗争を展開した。元WWFインターコンチネンタル・ヘビー級王者WWE殿堂者
== 来歴 ==
ハワイでは学生時代にレスリングアメリカンフットボールで実績を築く一方、サーフィンの名手としても知られたという〔『THE WRESTLER BEST 1000』P184(1996年、日本スポーツ出版社) 〕。1970年オレゴンワシントンなど太平洋岸北西部を拠点とするNWAのパシフィック・ノースウエスト・レスリングにて、ドン・モロー(''Don Morrow'')の名義でデビュー。
その後、ドン・ムラコ(''Don Muraco'')のリングネームバーン・ガニアAWAにてキャリアを積み、1971年11月には国際プロレスに初来日している(来日時の表記はドン・モロッコ)。AWAでは若手のベビーフェイスとしてビル・ロビンソンのパートナーにも起用され、ニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスが保持していたAWA世界タッグ王座に挑戦、テキサス・アウトローズとも対戦した。また、後に名勝負を繰り広げることになるラニ・ケアロハことジミー・スヌーカとも度々タッグを組んだ。
1974年からはカリフォルニアの各テリトリーを転戦し、ロサンゼルスでは1975年5月2日、前王者グレッグ・バレンタインの返上で空位となっていたNWAアメリカス・ヘビー級王座をトーナメントに優勝して獲得。サンフランシスコでは1976年3月24日、同地区認定のNWA世界タッグ王座ペドロ・モラレス&パット・パターソンから奪取した。デビュー以来ベビーフェイスのポジションにいたが、サンフランシスコではヒールターンを行い、同じハワイ出身のミスター・フジマサ斎藤ともタッグを組んでいる。
1977年ニュージーランドに遠征し、ジョン・ダ・シルバを下して英連邦ヘビー級王座を獲得、同郷の大先輩キング・カーティス・イヤウケアともタイトルを争った。同年7月には全日本プロレスに来日している〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P58(2002年、日本スポーツ出版社)〕。1978年4月1日には古巣のサンフランシスコにて、フラッグシップ・タイトルのUSヘビー級王座をディーン・ホーから奪取。地元のハワイではベビーフェイスに戻り、同年6月21日にバディ・ローズ、9月20日にトーア・カマタを破り、NWAハワイ・ヘビー級王座を2回獲得した。ハワイでは9月にジョン・スタッドからパシフィック・インターナショナル・ヘビー級王座を奪取したともされる。
1979年より南部フロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)を主戦場に、ハワイのビーチにたむろするゴロツキをイメージしたヒールとなって活動。6月6日にジョー・ルダックと組んでスティーブ・カーン&マイク・グラハムからUSタッグ王座を奪取した後、10月の全日本プロレスへの再来日を経て、1980年3月26日にはマニー・フェルナンデスを下してNWAフロリダ・ヘビー級王座を獲得している。以降もフロリダではサー・オリバー・フンパーディンクマネージャーに、ダスティ・ローデスをはじめジャック・ブリスコバグジー・マグローと抗争を展開した。
1981年よりWWFに登場し、3月には新日本プロレスに初参戦。3月9日に愛知県体育館にて坂口征二の北米ヘビー級王座に挑み、タッグではタイガー・ジェット・シンのパートナーとなって、3月20日に会津にて坂口&長州力北米タッグ王座に挑戦した。WWFではキャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーに迎え、ザ・マグニフィセント・ムラコ(''The Magnificent Muraco'')を名乗り、6月20日にフィラデルフィアでペドロ・モラレスからWWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座を奪取、第4代王者となった。同年8月24日には2冠王を狙い、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンボブ・バックランドWWFヘビー級王座にも挑戦、60分時間切れ引き分けの死闘を演じている。1982年は新日本プロレスに再来日、3月に開幕したMSGシリーズ第5回大会に出場した。
インターコンチネンタル王座は1981年11月23日にモラレスに奪還されていたが、1983年1月22日にMSGで再びモラレスを破り王座奪回に成功。以降、1984年2月11日にティト・サンタナに敗れるまで、1年近くに渡って同王座を保持した〔。この間、1983年10月17日にMSGで "スーパーフライ" ジミー・スヌーカを相手にスチール・ケージ・マッチによる防衛戦を行う。ケージ最上段からのスヌーカのスーパーフライ・スプラッシュを真っ向から受け止めたこの試合は、会場で観戦していたミック・フォーリーに大きな衝撃を与え、彼がプロレスラーを目指すきっかけとなった(後の2004年、ムラコがWWE殿堂に迎えられた際のインダクターはフォーリーが務めた)〔Mick Foley "Have a Nice Day: A Tale of Blood and Sweatsocks" P33–34(2000年、Regan Books、ISBN 0061031011)〕。
以降もWWFに定着し、1984年にビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でスタートした全米侵攻にもヒールの重要な戦力として参加。サンフランシスコでも共闘していたミスター・フジを新しいマネージャーに迎え、新WWF世界王者ハルク・ホーガンに挑戦する一方、1985年からはリッキー "ザ・ドラゴン" スティムボートと抗争。1986年にはカウボーイ・ボブ・オートンと組んでタッグ戦線にも進出した。
1987年、オートンとの仲間割れ後、ブッチ・リードに襲撃されたスーパースター・ビリー・グラハムを助けてベビーフェイスに転向。以後、その岩石のような肉体からザ・ロック(''The Rock'')をニックネームに、グラハムをマネージャーに迎えて再起を図る。同年11月26日に開催されたサバイバー・シリーズの第1回大会では、ポール・オーンドーフケン・パテラバンバン・ビガロと共に、旧敵ハルク・ホーガンとチームを結成した。しかし1988年、WWFを解雇される(欧州遠征中、ロード・エージェントのニック・ボックウィンクルとトラブルを起こしたことが原因とされる〔『ピュア・ダイナマイト - ダイナマイト・キッド自伝』P249(2001年、エンターブレイン、ISBN 4757706391)〕)。
その後はカルガリースタンピード・レスリングに登場し、1988年12月9日にマッカン・シンを破って北米ヘビー級王座を獲得。翌1989年1月には全日本プロレスに久々に来日した。以降は末期のAWAや各地のインディー団体を経て、1992年より旗揚げ間もないECWに参戦。10月24日に因縁のジミー・スヌーカからECW世界ヘビー級王座を奪取し、サンドマンやティト・サンタナとも同王座を争った。1994年には赤鬼なる覆面レスラーとしてWARにも来日している(パートナーの「青鬼」はタイガー戸口)。
2003年に引退し、地元のハワイで新団体HCW(Hawai'i Championship Wrestling)の設立に参画。2006年まで同団体の運営部長とコミッショナーを務めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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