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キラー・トーア・カマタ : ミニ英和和英辞書
キラー・トーア・カマタ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

キラー・トーア・カマタ : ウィキペディア日本語版
キラー・トーア・カマタ[ちょうおん]

キラー・トーア・カマタ"Killer" Tor Kamata、本名:McRonald Kamaka1937年3月9日 - 2007年7月23日)は、アメリカ合衆国プロレスラーハワイ州ホノルル出身。カナカ人の血を引くとされる〔『THE WRESTLER BEST 1000』P65(1996年、日本スポーツ出版社) 〕。
選手時代は悪役レスラーとして活躍し、流血大王の異名を持つ。実弟のコーア・ティキもプロレスラーで、1972年7月に新日本プロレスに来日したことがある〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P82(2002年、日本スポーツ出版社)〕。
== 来歴 ==
同じハワイ出身のプロレスラーであるキング・イヤウケアに誘われて1958年プロレス入り〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P29(2002年、日本スポーツ出版社)〕。スポーツ歴としてはレスリングアメリカンフットボール、ハワイ相撲の経験があるという〔。なお、空手については「ナカソネという日本人にほんの少し教えてもらっただけ」と語っている〔『デラックス・プロレス 昭和58年3月号』P56(1983年、ベースボール・マガジン社)〕。
デビュー当時はハワイの日系人レスラー、ミスター・モトに倣って日系人ギミックを用い、ドクター・モトDr. Moto)のリングネームで活躍〔。ミツ・アラカワタッグチームを結成し、1967年10月13日にインディアナポリスにてディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーからWWA世界タッグ王座を、同年12月2日にはシカゴウイルバー・スナイダー&パット・オコーナーからAWA世界タッグ王座を奪取している。翌1968年12月28日、最終的に両王座をブルーザー&クラッシャーに明け渡すまで、AWAWWAの世界タッグ王座の2冠王として1年間にわたって長期政権を築いた〔〔。
アラカワとのタッグ解消後、1969年よりトーア・カマタTor Kamata)に改名(「カマタ」はより日本人らしく見せるためのネーミング・ギミック。「トーア」は「東亜」より取ったといわれているが、スペリングからすると「巨大な岩山」という意味合いである)。以降、日系ヒールとして派手な着物をまとい、ニューヨークWWWFカナダカルガリー地区(スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)などの主要テリトリーを転戦した〔。
カルガリーでは1972年クルト・フォン・ヘスジェフ・ポーツを破って北米ヘビー級王座を再三獲得。王座戴冠中の同年7月8日にはエドモントンにて、当時ドリー・ファンク・ジュニアが保持していたNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。以降もフラッグシップ・タイトルの北米王座を巡り、ジョージ・ゴーディエンコカルロス・ベラフォンテアーチー・ゴルディーギル・ヘイズらと対戦。同タイプのアブドーラ・ザ・ブッチャーとも流血の抗争を繰り広げた。1975年5月には同地区のブッカーだったジョー・タイゴーの招聘で国際プロレスに初来日。以後、日本マットにおいても実績を残した(後述)。
1976年下期からはWWWFに進出したが、反則・暴走が目に余るため、トップコンテンダーにもかかわらず当時の王者ブルーノ・サンマルチノWWWF世界ヘビー級王座に挑戦させてもらえなかったという逸話を残している〔『別冊ゴング 昭和52年6月号』P132(1977年、日本スポーツ出版社)〕(マディソン・スクエア・ガーデンでの挑戦機会はなかったものの、1977年2月27日にメリーランド州のキャピタル・センターにてサンマルチノへの挑戦が実現した)。WWWFではフレッド・ブラッシーマネージャーに迎え、ニコライ・ボルコフスタン・スタージャックと組んでチーフ・ジェイ・ストロンボー&ビリー・ホワイト・ウルフが保持していたWWWF世界タッグ王座にも度々挑戦した〔〔。
地元のハワイでは、1977年12月にサム・スティムボートからNWA北米ヘビー級王座を、1978年8月にドン・ムラコからNWAハワイ・ヘビー級王座を奪取。1980年からは再びニューヨークに登場し、新王者ボブ・バックランドWWFヘビー級王座に挑戦〔。同年8月9日にシェイ・スタジアムにて開催されたビッグ・イベント "Showdown at Shea" にも出場しており、パット・パターソンを相手に反則負けを喫している。
1981年の下期はジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに参戦し、レイ・スティーブンスとのタッグなどで活動〔。同年11月1日にはアトランタオムニ・コロシアムにてスーパー・デストロイヤーと組み、スタン・ハンセン&トミー・リッチと対戦、翌11月2日にはオーガスタにてハンセンとのシングルマッチも行われた。1982年にはマーク・ルーインのブッキングにより、キング・カマタKing Kamata)のリングネームでニュージーランドに遠征。キラー・カール・クラップオックス・ベーカーをパートナーにタッグ王座を獲得している。
1980年代前半に心臓に不安要因が見つかり減量、最後の来日を果たした1987年に現役を引退した。
2007年7月23日カナダサスカチュワン州サスカトゥーンにて心臓発作のため死去〔。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「キラー・トーア・カマタ」の詳細全文を読む




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