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パット・パターソン : ミニ英和和英辞書
パット・パターソン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

パター : [ぱたー]
 【名詞】 1. putter 2. (n) putter
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

パット・パターソン : ウィキペディア日本語版
パット・パターソン[ちょうおん]

パット・パターソンPat Patterson、本名:Pierre Clemont1941年1月19日 - )は、アメリカ合衆国で活動した元プロレスラーカナダケベック州モントリオール出身のフランス系カナダ人
現役選手時代はNWAAWAWWFの各団体で主要タイトルを獲得し、引退後はWWEのクリエイティブ・コンサルタントを務めている。
== 来歴 ==
15歳の頃から地元モントリオールにてプロレス興行の裏方として働き始め、同地区で活躍していたキラー・コワルスキーに師事して1958年に17歳でデビュー。キャリア初期は "プリティ・ボーイ" パット・パターソン(''"Pretty Boy" Pat Patterson'')のリングネームを名乗り、口紅を塗ってピンクのトランクスを穿き、ペットのプードルを連れてリングに登場するなどのギミックで活動した。
1960年代からはアメリカ合衆国NWA加盟団体を中心に活動。太平洋岸北西部では1964年から1966年にかけて、NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を通算3回獲得。テキサス西部のアマリロでは1968年7月18日にサンダーボルト・パターソンからブラスナックル王座を奪取。10月24日にはトーナメントの決勝でパット・オコーナーを下し、同地区認定のNWA北米ヘビー級王座を獲得している。
カリフォルニア北部のサンフランシスコではレイ・スティーブンスとのブロンド・ボンバーズ(''The Blond Bombers'')で鳴らし、ヒールベビーフェイスの両方のポジションで活躍。同地区のトップスターとなり、フラッグシップ・タイトルであるUSヘビー級王座には1969年から1977年にかけて、ペドロ・モラレスロッキー・ジョンソングレート・メフィストムーンドッグ・ロニー・メインザ・ブルートアンジェロ・モスカアレックス・スミルノフらを破り、通算6回に渡って戴冠した。
1977年よりサンフランシスコを離れ、フロリダエディ・グラハム主宰のCWF)やAWAなど各地の主要テリトリーをヒールのポジションで転戦。フロリダでは同年5月20日にマイク・グラハムからNWAフロリダTV王座を、6月20日にはイワン・コロフと組んでジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコからNWAフロリダ・タッグ王座をそれぞれ奪取している。
AWAではレイ・スティーブンスとのコンビを再結成し、1978年9月23日にAWA世界タッグ王座を獲得。以降、マイティ・イゴール&ルーファス・ジョーンズポール・エラリング&スティーブ・オルソノスキーバーン・ガニア&ビル・ロビンソン、前王者チームのハイ・フライヤーズ(グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼル)などを相手に防衛を続け、1979年6月6日にバーン・ガニア&マッドドッグ・バションに敗れるまで戴冠した〔。
AWA世界タッグ王座陥落後、グラン・ウィザードマネージャーに迎えてWWFに登場し、1979年6月19日にテッド・デビアスから北米ヘビー級王座を奪取。その後、ブラジルリオデジャネイロで行われたという架空のトーナメントに優勝したと称して、同王座を北米と南米との大陸間のインターコンチネンタル・ヘビー級王座と改称。この王座こそが団体の最高位のタイトルであるとアピールし、WWF王者ボブ・バックランドと「王者対王者」の抗争を展開、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンでの定期戦において、7月から9月にかけてバックランドのWWFヘビー級王座に3か月連続で挑戦した。
1980年初頭より、ウィザードとの仲間割れを機にベビーフェイスに転向、以降はWWFの主力選手として、ケン・パテラボビー・ダンカンサージェント・スローターらと抗争を展開、フランス出身のアンドレ・ザ・ジャイアントともタッグを組んだ。1980年8月9日にシェイ・スタジアムにて開催されたビッグ・イベント "Showdown at Shea" ではトーア・カマタから反則勝ちを収めている。WWFでの活動と並行して地元モントリオールの団体(ジノ・ブリットディノ・ブラボーが参画していたインターナショナル・レスリング)にも出場し、リック・マーテルなどと対戦していたが、WWFが全米侵攻を開始した1984年に現役を引退した〔。
引退後はWWFのロード・エージェントに就任、ブッカーとして試合の構成やストーリー立案を手掛け、1988年から現在まで開催されているロイヤルランブルも彼が考案した。1996年にはWWF殿堂に迎えられている〔。WCWとのマンデー・ナイト・ウォーズにおいては、当時のWWFのアティテュード路線における主要なプロデューサーの一人となり〔、悪のオーナーを演じていたミスター・マクマホンの側近として時折ストーリーにも絡んだ〔。2000年6月19日にはハードコア王座にも戴冠している。
2003年RAW10周年記念特番では、ミーン・ジーン・オーカーランドと共に『放送に問題あり賞』のプレゼンターを務めた(受賞したのは、自身も関わったマーク・ヘンリーメイ・ヤングのラブストーリーであった)。
2004年トリプルHの起用法を巡りビンス・マクマホンと対立、同年10月にWWEを退団したが、翌2005年5月に復職している〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「パット・パターソン」の詳細全文を読む




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