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キラー・コワルスキー : ミニ英和和英辞書
キラー・コワルスキー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

キラー・コワルスキー : ウィキペディア日本語版
キラー・コワルスキー[ちょうおん]

キラー・コワルスキーKiller Kowalski、本名:Edward Władysław Spulnik1926年10月13日 - 2008年8月30日)は、ポーランド系カナダ人のプロレスラーカナダオンタリオ州ウィンザー出身。ミドルネーム "Władysław" の英語読みであるウラデック・コワルスキーWladek Kowalski) またはウォルター・コワルスキーWalter Kowalski)の通称でも知られる。
試合中のアクシデントである「耳そぎ事件」の伝説や、2メートル級の長身と痩躯、そして般若のような風貌など、妖気の漂う大ヒールとして活躍した〔『世界名レスラー100人伝説!!』P60-61(2003年、日本スポーツ出版社、監修:竹内宏介)〕。日本でも力道山ジャイアント馬場と死闘を演じ、"殺人狂"、"幽鬼"、"死神"、"墓場の使者"、"さまよえる亡霊"、"世紀の殺し屋"、"地獄の大統領"など数々の異名で呼ばれた。
== 来歴 ==
1947年1944年説もあり)のデビュー後、ウラデック・コワルスキーターザン・コワルスキーなどの名義でカナダアメリカ北部を中心に各地を転戦。当時は鍛え上げられた筋肉美を誇っていたことから、ポーリッシュ・アポロ(''Polish Apollo'')のニックネームでも活動した〔。
1950年よりモントリオール地区を主戦場とするが、1952年10月15日〔『Gスピリッツ Vol.14』P62(2009年、辰巳出版、ISBN 4777807444)〕、トップロープからのダイビング・ニー・ドロップユーコン・エリックの左耳をそぎ落とすという事故が起こる(実際はコワルスキーのリングシューズのひもがエリックの耳に引っ掛かってのアクシデント)〔『THE WRESTLER BEST 100』P60-61(1981年、日本スポーツ出版社)〕。この「耳そぎ事件」のショックでエリックは自殺した、との伝説も語られたが、実際は妻の不貞によって精神的に悩まされていたことが原因であり、エリックはコワルスキーを憎んではおらず、後日コワルスキーが病院へ見舞いに訪れた際も、2人で笑い合ったという〔。この事故は結果的にコワルスキーのヒールとしての悪名を高めることとなり、以降はリングネームをキラー・コワルスキーに定着させ、北米全域でその名を轟かせた〔。
その後モントリオールでは1962年までの10年間において、バーン・ガニアドン・レオ・ジョナサンアントニオ・ロッカパット・オコーナーハードボイルド・ハガティジン・キニスキーバディ・ロジャースらを破り、フラッグシップ・タイトルの世界ヘビー級王座を通算13回獲得。その間はNWAの各テリトリーにおいて、ルー・テーズホイッパー・ビリー・ワトソンなど歴代NWA世界ヘビー級王者にも何度となく挑戦した〔。1963年からはニューヨークWWWFにて、バディ・ロジャースやブルーノ・サンマルチノWWWF世界ヘビー級王座に再三挑戦。同年11月14日にはワシントンDCにてゴリラ・モンスーンをパートナーに、スカル・マーフィー&ブルート・バーナードからUSタッグ王座を奪取した。
1960年代オーストラリアジム・バーネットが主宰していたワールド・チャンピオンシップ・レスリング)でも活動し、1964年10月にはフラッグシップ・タイトルとして新設されたIWA世界ヘビー級王座の初代王者に認定されている。翌月ドミニク・デヌーチに王座を明け渡すも、以降もスパイロス・アリオンビリー・ホワイト・ウルフベアキャット・ライトなどを下し、1967年まで通算5回にわたって戴冠した〔。タッグでは1967年にスカル・マーフィーと凶悪コンビを組み、マリオ・ミラノ&レッド・バスチェンからIWA世界タッグ王座を2回奪取している。
その間アメリカでは、1966年6月から1967年4月にかけてAWAに出場。パット・オコーナー、ウイルバー・スナイダークリス・マルコフガイ・ミッチェルジャック・ランザから勝利を収め、当時マッドドッグ・バションが保持していたAWA世界ヘビー級王座に再三挑戦。モントリオールでの旧敵である総帥バーン・ガ二アをはじめ、ディック・ザ・ブルーザークラッシャー・リソワスキーとも対戦し、ジ・アラスカンことジェイ・ヨークをパートナーに、AWA世界タッグ王者チームのラリー・ヘニング&ハーリー・レイスにも挑戦した。
その後はWWWFへの再登場を経て、1970年よりダラスヒューストンを拠点とするテキサスの東部地区に参戦。フリッツ・フォン・エリックワフー・マクダニエルミル・マスカラスサンダーボルト・パターソンらと抗争を繰り広げ、翌1971年にかけてはジョニー・バレンタインとテキサス・ブラスナックル王座を争った。同地区では、ドリー・ファンク・ジュニアが保持していたNWA世界ヘビー級王座にも挑戦している。
1972年ロサンゼルスNWAハリウッド・レスリングにて1月28日にアメリカス・ヘビー級王座を獲得。4月25日にはキンジ・シブヤと組んでドリー・ディクソン&ラウル・マタからアメリカス・タッグ王座を奪取している。古巣のモントリオールでは1972年から1973年にかけて、マッドドッグ・バションが主宰していたグランプリ・レスリング(GPW)にて、エドワード・カーペンティアを相手にGPWヘビー級王座を巡る抗争を展開。現地ヒールのジル・ポワソンをパートナーに、1972年11月13日にハリウッド・ブロンズ、1973年10月2日にカーペンティア&ブルーノ・サンマルチノを破り、GPWタッグ王座にも2回戴冠した
1975年にはエディ・グラハムが主宰していたフロリダCWFにて覆面レスラーマスクド・デストロイヤー(''The Masked Destroyer'')に変身。11月20日にジェリー・ブリスコを破って南部ヘビー級王座を獲得し、12月16日にビル・ロビンソンに敗れるまで保持した。キャリア末期には主戦場のWWWFでも覆面レスラーのエクスキューショナー1号(''The Executioner #1'')に扮し、弟子格である2号のビッグ・ジョン・スタッドとの大型タッグチーム「ジ・エクスキューショナーズ」で活動。1976年5月11日にトニー・パリシ&ルイ・セルダンからWWWF世界タッグ王座を奪取したが、同年10月26日、ニコライ・ボルコフに覆面を被せ、3人目のメンバーに起用して防衛戦を行ったために王座を剥奪された。
1977年に現役を引退〔。以降は1982年、ブルーノ・サンマルチノが旗揚げしたアメリカ東部のインディー団体IWFに登場したことがある。1987年11月16日には、WWFニュージャージー州イーストラザフォードでのオールドタイマーズ・バトルロイヤルに出場(他の参加選手は優勝者のルー・テーズ以下、パット・オコーナー、ジン・キニスキー、エドワード・カーペンティア、ボボ・ブラジル、クラッシャー・リソワスキー、ニック・ボックウィンクルレイ・スティーブンスペドロ・モラレスアーノルド・スコーランアート・トーマスバロン・シクルナアル・コステロなど)。1996年にはWWF殿堂に迎えられた。
引退後はマサチューセッツ州セイラムにてレスリング・スクールを開校し、2003年9月に年齢的な問題もあり閉鎖するまで、トレーナーとして活動した。スクールの主な出身者は、ペリー・サターンジョン・クローナストリプルHチャイナクリス・ノウィンスキージェイソン・アルバートケニー・ダイクストラジョナサン・カーティスなどがいる〔。
2008年8月30日心臓発作のため81歳で死去〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「キラー・コワルスキー」の詳細全文を読む




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