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スカル・マーフィー : ミニ英和和英辞書
スカル・マーフィー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

スカル・マーフィー : ウィキペディア日本語版
スカル・マーフィー[ちょうおん]

スカル・マーフィーSkull Murphy)のリングネームで知られるジョン・ジョセフ・マーフィーJohn Joseph Murphy1930年12月7日 - 1970年3月23日)は、カナダオンタリオ州ハミルトン出身のプロレスラー。生誕地はアイルランドコーク州ともされる〔『THE WRESTLER BEST 1000』P287(1996年、日本スポーツ出版社)〕。
スキンヘッドに全身無毛の怪奇派ヒールとして、1950年代から1960年代にかけて活躍した。その怪異な風貌から、日本では「海坊主」の異名で呼ばれた〔。
== 来歴 ==
幼少時に病気で頭髪をはじめ全身の体毛を失う(日本では猩紅熱が原因とされている〔)。後に日本マットでも共闘した友人のムース・ショーラックによると、彼は全身無毛であることに生涯悩まされ続け、わずかでも毛が生えてくると、それを神経質なくらいに剃り落していたという〔。
学生時代にボクシングとボディビルを始め〔、プロレスラーのチャック・モルナーからプロレス入りを勧められ、ハミルトンのユダヤ系YMCAでジミー・シムズのトレーニングを受けて1952年にデビュー〔。以降、ラリー・カサボスキーが主宰していた地元オンタリオのNWE(Northland Wrestling Enterprises)を主戦場にキャリアを積んだ〔。
1960年代初頭はアメリカ南部NWAジョージア地区ヒールのメインイベンターとなって活動し、1961年ガイ・ミッチェルらを破り南部ヘビー級王座を3回に渡って獲得。1962年7月には日本プロレスへの初来日が実現、9月14日に東京都体育館にて、ゴリラ・マコニーと組んで力道山&豊登アジアタッグ王座に挑戦。タイトル奪取は果たせなかったものの、試合後にムース・ショーラックらを呼び込んで力道山をリンチし、右胸鎖関節を亜脱臼させるというアングルで悪名を売った〔。
1963年、同じくカナダ出身のブルート・バーナードと凶悪タッグを組み、ニューヨークWWWFに参戦。同年5月16日にバディ・オースチン&グレート・スコットからWWWF・USタッグ王座を奪取し、11月14日にゴリラ・モンスーン&キラー・コワルスキーに敗れるまで保持した。戴冠中の6月5日には、バディ・ロジャースからWWWF世界ヘビー級王座を奪取して間もないブルーノ・サンマルチノにも挑戦している。
以降もバーナードとのコンビで活動し、1964年フロリダ地区で1月28日にヘイスタック・カルホーン&ドン・カーティス、2月18日にヒロ・マツダ&デューク・ケオムカを破りNWA世界タッグ王座を2回獲得。1966年にはジム・バーネットが運営していたオーストラリアのWCWに揃って遠征し、タッグ戦線を席巻した。バーナードの帰国後も単身でオーストラリアに定着し、1966年8月13日にマーク・ルーインからIWA世界ヘビー級王座を奪取している。以降1960年代後半は豪州マットを主戦場に、キラー・コワルスキーやキラー・カール・コックスを新パートナーにIWA世界タッグ王座を再三獲得、1969年にはバーナードとのタッグチームを再結成し、12月5日にディック・マードック&ラーズ・アンダーソンを破り通算9度目の(および生涯で最後の)戴冠を果たした〔。
この間、日本には1968年7月に日本プロレスに再来日し、7月8日に東京スタジアムにて、クロンダイク・ビルと組んで吉村道明&大木金太郎からアジアタッグ王座を奪取。1969年5月にはバーナードとのコンビで来日、日本勢を相手に狂乱ファイトを繰り広げ、5月31日に札幌中島スポーツセンター、6月25日に大阪府立体育館において、BI砲ジャイアント馬場&アントニオ猪木)のインターナショナル・タッグ王座に連続挑戦した〔『1945-1985 激動のスポーツ40年史(6)プロレス 秘蔵写真で綴る激動史』P154(1986年、ベースボール・マガジン社)〕。
1970年3月23日ノースカロライナ州シャーロットにて死去。死因は心臓発作と報じられたが、睡眠薬の過剰摂取〔による服薬自殺ともいわれている〔(日本ではノイローゼによるピストル自殺とされている〔)。当日はシャーロットにて、バーナードと組んでミスター・レスリング&ザ・ケンタッキアンと対戦する予定だった〔。
日本ではジャイアント馬場の代名詞である十六文キックの開発に関与したレスラーとして知られている。初渡米時にヒール修行中だった馬場がニューヨークでマーフィーとタッグを組んだ際、マーフィーが相手をロープに飛ばして「おまえもキックだ」と馬場に言いつつ一緒に蹴ったことが、後の十六文キック誕生のきっかけとされている〔『16文が行く (新装版) 』P212-215(1999年、ダイナミックセラーズ出版、ISBN 488493279X)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スカル・マーフィー」の詳細全文を読む




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