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ストロング小林 : ミニ英和和英辞書
ストロング小林[すとろんぐこばやし]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ロング : [ろんぐ]
  1. (adj,n) long 2. (adj,n) long
: [はやし]
 【名詞】 1. woods 2. forest 3. copse 4. thicket 

ストロング小林 : ウィキペディア日本語版
ストロング小林[すとろんぐこばやし]

ストロング小林(ストロングこばやし、1940年12月25日 - )は、日本の元プロレスラー俳優タレント。本名は小林 省三(こばやし しょうぞう)。
現役選手時代はパワーファイターとして活躍し、1970年代前半の国際プロレスではエースを務め、新日本プロレス移籍後もメインイベンターの一角を担った。アメリカのマット界においても、AWAWWWF(現・WWE)などのメジャーテリトリーにおいて実績を残している。
俳優・タレントに転じてからは、1982年の映画『伊賀忍法帖』出演をきっかけに、ストロング金剛(ストロングこんごう)を芸名に活動した。現役晩年以降はスキンヘッドが特徴。
== 来歴 ==

=== 国際プロレス時代 ===
東京都青梅市で出生。中学時代に相撲部屋からスカウトが来たが断り〔吉田豪掟ポルシェ『電池以下』アスペクト、2012年、pp104-110。ストロング小林インタビュー。初出は2004年『CONTINUE』誌Vol.16。〕、東京都立農林高等学校卒業後、国鉄に就職。プロレスラー力道山の逆三角形の肉体に憧れてボディビルに打ち込む〔。1966年10月、友人が出場したボディビル大会の会場で、国際プロレス社長・吉原功と出会い、その場で吉原とマティ鈴木にスカウトされ〔『忘れじの国際プロレス』、P87〕、団体旗揚げ間近の同年11月1日に入門。ヒロ・マツダの付き人として全国巡業に同行。翌1967年7月27日、マスクマンの「覆面太郎」として大磯武を相手にデビュー。日本でデビューした覆面レスラー第1号となるが、1968年1月3日、TBSによる国際プロレスのテレビ放映開始と同時に素顔になった〔三熊宏治「ストロング小林が語った国際プロレス離脱の真相とアントニオ猪木戦の舞台裏」『別冊宝島 プロレススキャンダル事件史 いま明かされる真相』宝島社、2003年、pp.56-58〕。
当時のブッカーだったグレート東郷が国際プロレスと決別して帰国する際、東郷からアメリカ行きを打診されたが、その誘いを断り〔、1968年10月に初の海外修行へ出発。その後、帰国と遠征を繰り返す中で実力を上げ、パリでのIWA世界タッグ王座奪取(1969年5月18日、豊登と組んでモンスター・ロシモフ&イワン・ストロゴフに勝利)、東京でのUSAヘビー級王座獲得(1969年10月14日、バディ・コルトから奪取)、アメリカミネソタ州ダルースでのIWA世界ヘビー級王座戴冠(1971年6月19日、前王者はビル・ミラー)、1972年の第4回IWAワールド・シリーズ優勝(決勝の相手はモンスター・ロシモフ)などの実績を築き、国際プロレスのエースに君臨する。当時の国際プロレスの提携団体だったAWAの総帥バーン・ガニアAWA世界ヘビー級王座にも、1970年2月に大阪と東京で連続挑戦。1971年のアメリカ遠征においても、ミネアポリスシカゴデンバーウィニペグミルウォーキーなど各地で再三挑戦した。IWA世界ヘビー級王者として凱旋帰国する際も、ガニアからはアメリカに残るよう慰留されたという〔『忘れじの国際プロレス』、P85〕。
IWA世界ヘビー級王座は1971年6月の獲得からワフー・マクダニエルに敗れる1973年11月9日まで2年6か月間保持、ブラックジャック・ランザレッド・バスチェンバロン・フォン・ラシクジェリー・ブラウンダスティ・ローデスダン・ミラーカーティス・イヤウケアビル・ロビンソンクラッシャー・リソワスキーホースト・ホフマンマッドドッグ・バションエドワード・カーペンティアイワン・コロフディック・マードック、前王者ビル・ミラー、そして同門のラッシャー木村などの強豪を挑戦者に、25回の防衛を記録している〔『1945-1985 激動のスポーツ40年史(6)プロレス 秘蔵写真で綴る激動史』P159(1986年、ベースボール・マガジン社)〕。この記録は、ジャイアント馬場インターナショナル・ヘビー級王座21回連続防衛を破る当時の日本人新記録であった(後に馬場がPWFヘビー級王座の38回連続防衛を達成し抜き返した)〔『忘れじの国際プロレス』、P105〕。
その間の1972年7月7日には、木村の返上で空位となっていたIWA世界タッグ王座決定戦において、グレート草津との新コンビでビル・ミラー&バロン・シクルナを破り、同王座への2度目の戴冠を果たす。以後、シングルとタッグのIWA2冠王として、1973年4月18日にマッドドッグ・バション&イワン・コロフに敗れるまで、バディ・オースチン&ビル・ドロモディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーなどのチームを相手に6回の防衛戦を行った〔『忘れじの国際プロレス』、P102〕。
国際プロレスの象徴でもあった金網デスマッチには、1971年10月26日のダニー・リンチ戦で初挑戦(国際所属選手では木村とサンダー杉山に次いで3人目)。以降、IWA世界ヘビー級王座の防衛戦では1972年1月27日のカーティス・イヤウケア戦、同年11月28日のクラッシャー・リソワスキー戦、1973年1月16日のザ・プロフェッショナル(ダグ・ギルバート)戦、同年3月16日のマッドドッグ・バション戦の4試合は金網デスマッチで行われた。ノンタイトル戦でもバディ・オースチン、ビル・ドロモ、ベンジー・ラミレス、レッド・バスチェン、ターザン・タイラーラーズ・アンダーソン、ダスティ・ローデス、スカンドル・アクバ、ディック・マードック、ブラックジャック・マリガンなどと金網デスマッチで対戦した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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