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ジム・クロケット・ジュニア : ミニ英和和英辞書
ジム・クロケット・ジュニア[じゅにあ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ジュニア : [じゅにあ]
 【名詞】 1. junior 2. (n) junior

ジム・クロケット・ジュニア : ウィキペディア日本語版
ジム・クロケット・ジュニア[じゅにあ]

ジム・クロケット・ジュニアJim Crockett, Jr.1944年8月10日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスリングプロモーターノースカロライナ州シャーロット出身。
1970年代から1980年代にかけて、日本では「NWAミッドアトランティック地区」と呼ばれた自身の団体ジム・クロケット・プロモーションズWCWの前身団体)を率い、黄金テリトリーを築いた。また、マイナーリーグのシャーロット・オリオールズ(現在のシャーロット・ナイツ)のオーナーでもあった。
== 来歴 ==
ノースカロライナ州シャーロットを拠点に、プロレス野球などのスポーツからコンサート演劇まで、さまざまなショービジネスのプロモーターとして活動していた“ビッグ・ジム”ことジム・クロケット・シニアの長男。1973年の父親の死去後は義兄のジョン・リングレイが後継者としてビジネスの主導権を握ったが、不倫問題が発覚してリングレイはクロケット・ファミリーを追われ、最終的に彼がジム・クロケット・プロモーションズ(JCP)を継承することとなった〔『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』、P93-94〕〔『リック・フレアー自伝 トゥー・ビー・ザ・マン』、P60-61〕。
以降、ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリングMACW)をブランドネームに、ノースカロライナおよびサウスカロライナバージニアを主要なサーキットエリアとしてプロレス興行を展開。ジョニー・バレンタインミネソタ・レッキング・クルーミスター・レスリングワフー・マクダニエルブラックジャック・マリガンリック・フレアーリッキー・スティムボートらトップスターを主力選手にNWAの有力プロモーターとなり、1980年から1982年にかけてはNWAの会長職を務めた。
1984年WWFビンス・マクマホン・ジュニア全米侵攻を開始すると、AWAバーン・ガニアCWAジェリー・ジャレットらとジョイント・ベンチャー組織 "Pro Wrestling USA" を結成するが、ガニアとの軋轢が原因で共同事業から撤退。以降は独自の戦略でWWFに対抗し、NWA会長に再選出された1985年にはジム・バーネットが主宰していたジョージア地区を事実上吸収合併、テッド・ターナーTBSでの土曜夜というゴールデンタイムのテレビ放送枠を獲得した(''「ブラック・サタデー」の項も参照'')。また、ダスティ・ローデスをチーフ・ブッカーに、WWFの『レッスルマニア』に該当するビッグイベント『スターケード』を、レッスルマニアよりも実績のあるショーとして大々的に開催(スターケードはレッスルマニアよりも2年早い1983年に第1回大会が開催されている)〔『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』、P104-105〕。
1987年には3度目のNWA会長に選出され、かつてエディ・グラハムが管理していたフロリダ地区も傘下に収めるなど、WWFの侵攻でテリトリー制が崩壊しつつあったNWAの実権をほぼ掌握(WCCWのフリッツ・フォン・エリックセントラル・ステーツボブ・ガイゲルなど、他の有力プロモーターは同年にNWAを脱退)。さらに、同年にはビル・ワットUWFも買収、拠点をテキサス州ダラスに移し、アメリカ南部一帯をJCPのテリトリーとする。もう一方の雄だったバーン・ガニアのAWAがWWFとの興行戦争に敗れ弱体化していた当時、ビンス・マクマホンに対抗できる全米で唯一のプロモーターとなった〔。
ロード・ウォリアーズフォー・ホースメンニキタ・コロフスティングら所属選手も人気を集め、『スターケード』や『グレート・アメリカン・バッシュ』などのPPVイベントのさらなるグレード・アップも図られた。しかし、破産寸前だったUWFの買収に伴い、ワットが残した負債もすべて背負い込むことになったJCPは莫大な借金の返済に追われた〔『リック・フレアー自伝 トゥー・ビー・ザ・マン』、P256〕。その一方、マーケット規模の拡大に反して収益は上がらず、経費の急激な増加(および浪費〔〔『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』、P105-106〕)やブッカーのダスティ・ローデスとリック・フレアーの対立による現場の混乱などで事態は悪化〔『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』、P109〕。また、販売力がWWFと比べ脆弱だったためPPVの契約世帯数も惨敗、相次ぐ赤字で資金繰りも苦しくなり、クロケットは窮地に追い込まれることとなった〔『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』、P107〕。
苦境に立たされたクロケットは、1988年11月21日、ジム・バーネットの仲介によりTBSのテッド・ターナーにJCPの事業を売却〔『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』、P111-112〕。その後はNWA会長の立場でターナー傘下の新会社WCWに残ったが、1991年にビジネスから離れた。
以後、1994年ポール・ヘイマンと共に "World Wrestling Network" と銘打ったインターネットによるプロレス中継の配信事業を手掛けるが、成功につなげることはできなかった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジム・クロケット・ジュニア」の詳細全文を読む




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