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ダッチ・サベージ : ミニ英和和英辞書
ダッチ・サベージ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ダッチ・サベージ : ウィキペディア日本語版
ダッチ・サベージ[ちょうおん]

ダッチ・サベージDutch Savage、本名:Frank Stewart1935年6月9日 - 2013年8月3日)は、アメリカ合衆国プロレスラーペンシルベニア州スクラントン出身。
1960年代から1980年代初頭にかけて、オレゴンワシントンおよびカナダバンクーバーなど太平洋岸北西部を主戦場に活躍した。
== 来歴 ==
学生時代はアメリカンフットボールで鳴らし、卒業後はプロのフットボール・リーグに所属していたが〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P51(2002年、日本スポーツ出版社)〕、膝を故障してプロレスに転向。ハイスクールの友人でもあったザ・ケンタッキアンズのルーク・ブラウンのトレーニングを受け、1962年ジョージア州メイコンにてデビュー〔。
当時はルークにあやかり、ロニー・ブラウン(''Lonnie Brown'')と名乗っていた〔。以降、ミスター・X(''Mr. X'')やダッチ・シュルツ(''Dutch Schultz'')などとリングネームを変更した後、カンザスシティNWAセントラル・ステーツ地区にてダッチ・サベージ(''Dutch Savage'')と改名〔。黒いロングタイツに口髭の大型ヒールとして活動した。
1966年テキサス州西部のアマリロ地区で活動、1月12日にリッキー・ロメロからアマリロ版のNWA北米ヘビー級王座を奪取している。タッグではドン・ジャーディンと組んでドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクと抗争、総帥のドリー・ファンク・シニアをはじめ、ワフー・マクダニエルジャック・ブリスコダン・ミラーヘイスタック・カルホーンとも対戦した。1968年AWAに参戦、クラッシャー・リソワスキーイゴール・ボディックマッドドッグ・バションドクターXビル・ワットラリー・ヘニングハーリー・レイスブラックジャック・ランザロック・ロゴウスキーレッド・バスチェンらと対戦している。
1960年代後半より、オレゴン州ポートランドワシントン州シアトルを拠点とするパシフィック・ノースウエスト・レスリング(PNW)および同団体と提携関係にあったカナダバンクーバーのNWAオールスター・レスリング(ASW)に進出〔。以降、両エリアを主戦場とし、ASWではジン・キニスキードン・レオ・ジョナサンロッキー・ジョンソンらと抗争。1970年代に入るとベビーフェイスに転向し、PNWでは1970年12月から1977年8月にかけて、ムーンドッグ・メインブル・ラモスジェシー・ベンチュラロン・バスなどを破り、フラッグシップ・タイトルのNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を通算7回獲得。タッグではジミー・スヌーカとのコンビで活躍した。1970年代末からは、当時売り出し中だったアドリアン・アドニスロディ・パイパーリック・マーテルとも共闘し、キラー・ブルックスザ・シープハーダーズバディ・ローズエド・ウィスコスキーなどと抗争を展開している。
日本へは1967年5月、日本プロレスに初来日。1970年4月の再来日ではドン・レオ・ジョナサン、クリス・マルコフターザン・タイラーネルソン・ロイヤルポール・ジョーンズらと共に『第12回ワールドリーグ戦』に出場。ジャイアント馬場には敗退するも、アントニオ猪木と引き分け、坂口征二からは反則勝ちを収めるなどダークホースぶりを発揮し、外国人陣営ではジョナサンに次ぐマルコフと同点の2位の戦績を収めた〔。1971年の来日時はイワン・コロフと組み、7月1日に大阪府立体育館にてBI砲インターナショナル・タッグ王座に挑戦している。1972年10月には全日本プロレスの旗揚げシリーズに、ブルーノ・サンマルチノフレッド・ブラッシー、テリー・ファンクらと共に参戦。以後、1974年2月と1975年2月にも全日本プロレスに登場し、日本には通算6回来日した〔。
1981年の引退後は不動産業に携わりつつ、ノースウエスト地区のプロレス中継カラー・コメンテーターも担当していた。晩年は牧師に転身し、教役者となって活動していた〔。
2013年8月3日、ワシントン州の病院で死去〔ダッチ・サベージ氏が死去 日刊スポーツ 2013年8月7日〕。78歳没。同年4月に脳卒中に見舞われ、左半身が麻痺した状態となって闘病生活を送っていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ダッチ・サベージ」の詳細全文を読む




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