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ドン・レオ・ジョナサン : ミニ英和和英辞書
ドン・レオ・ジョナサン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ドン・レオ・ジョナサン : ウィキペディア日本語版
ドン・レオ・ジョナサン

ドン・レオ・ジョナサンDon Leo Jonathan1931年4月29日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーユタ州ソルトレイクシティ出身。本名はドン・ヒートンDon Heaton)、日本での異名は「人間台風」「モルモンの暗殺者」。
== 来歴 ==
モルモンの殺人者」と称されたプロレスラー、ブラザー・ジョナサンの息子。父のトレーニングのもと、1949年にプロレスラーとしてデビュー。1958年9月には日本プロレスに初来日を果たし、力道山インターナショナル・ヘビー級王座に挑戦している。
1961年1月にネブラスカ州オマハでドクターX(ビル・ミラー)を破ってオマハ版AWA世界ヘビー級王座を奪取。同年4月にもドクターX、5月には王座決定戦でボボ・ブラジルを下し、同王座は通算3回獲得している。ただし、無欲な性格もあってビッグタイトルにはこれ以外縁がなかった。
日本には1958年秋に日本プロレスに初来日し、力道山インターナショナル・ヘビー級王座の初防衛戦の相手を務めた。以降も日本プロレスをはじめ国際プロレス全日本プロレスに参戦し、ジャイアント馬場と名勝負を繰り広げている。馬場とはアメリカ修業時代に巨人コンビを結成した仲で、馬場が全日本旗揚げ直後に行った「世界ヘビー級争覇戦」(初代PWFヘビー級王座の決定戦となった)の対戦相手8人にも起用されているほか、1975年にはオープン選手権に参加。豪華メンバーを集めたリーグ戦にあってナチュラルな強さで存在感を発揮した。ただし、観客動員力はあまりなかったとされている。国際プロレスには1972年に開催された『第4回IWAワールド・シリーズ』に参戦。アンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦し、アンドレ自身にスケールの大きなプロレスを開眼させたという。
北米ではカナダ全土を主戦場とする一方、ニューヨークWWWFにもヒールのポジションで度々登場。グラン・ウィザードマネージャーに、ブルーノ・サンマルチノペドロ・モラレスWWWF世界ヘビー級王座に挑戦した。
巨体ながらトンボを切れるほどの卓越した運動神経と多彩なレスリングテクニックの持ち主で、またジャイアント馬場のキーロックを片手で軽々と担ぎ上げ(1967年)、若き日のアンドレをハイジャック・バックブリーカーで振り回し(1973年、カナダ)、ジャンボ鶴田のキーロックも場外で担ぎ上げたままリングに上がり(1978年)、果ては狩猟で仕留めた300キロもある大鹿を担いで山を降りたなど、怪力無双のエピソードも尽きない。その底の知れない強さは「その気になればルー・テーズを越えるレスラーになる」といわれていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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