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ヘイスタック・カルホーン : ミニ英和和英辞書
ヘイスタック・カルホーン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヘイスタック・カルホーン : ウィキペディア日本語版
ヘイスタック・カルホーン[ちょうおん]

ヘイスタック・カルホーンHaystacks Calhoun、本名:William Dee Calhoun1934年8月3日 - 1989年12月7日)は、アメリカ合衆国プロレスラーアーカンソー州モーガンズ・コーナー出身のドイツ系アメリカ人〔『'88プロレスオールスターSUPERカタログ』P109(1988年、日本スポーツ出版社)〕。
WWWF世界タッグ王者(第6代)。1960年代を代表する巨漢レスラーであり、日本では「人間空母」「お化けカボチャ」などの異名で呼ばれた〔『THE WRESTLER BEST 1000』P286(1996年、日本スポーツ出版社)〕。
== 来歴 ==
1957年にデビュー〔。オーバーオールを着用し、家畜の蹄鉄を鎖で首にぶら下げた農夫ギミックの超巨漢ベビーフェイスとして売り出され、カンザスシティヒューストンなど各地を転戦。1960年代初頭はニューヨークでの体重300kgのハッピー・ハンフリーとの巨漢対決で勝利し注目を浴びた。1962年10月にはロサンゼルスWWAにて、エイブ・ジェイコブズ(アベ・ヤコブ)とのコンビでWWAインターナショナルTVタッグ王座を獲得している。
1963年3月、日本プロレスの『第5回ワールド大リーグ戦』に初来日。羽田空港から都心のホテルまで小型トラックの荷台で運ばれるなどの演出で話題を呼び〔、4月17日には沖縄力道山インターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。若手時代のアントニオ猪木大木金太郎を相手にした5人掛けの変則試合なども行われた。
1960年代後半はカナダバンクーバー地区を主戦場に、1966年7月にはドン・レオ・ジョナサンと組んでジョン・トロス&トニー・ボーンからNWAカナディアン・タッグ王座を奪取。1968年6月にもジョナサンとのコンビでジ・アサシンズを破り、再び同王座を獲得した〔。この間、1966年12月には地元のアーカンソーをサーキット・エリアとするミッドサウスのトライステート地区にて、ジャック・ブリスコと組んでNWA USタッグ王座にも戴冠。1968年8月にはマンマウンテン・カノンとの巨漢コンビで日本プロレスに再来日している。
1970年よりニューヨークWWWFに定着。1973年5月30日、トニー・ガレアをパートナーにプロフェッサー・タナカ&ミスター・フジからWWWF世界タッグ王座を奪取した。9月11日にタナカ&フジにタイトルを奪回されるが、以降もベビーフェイスの中堅としてWWWF(WWF)に定着。ゴリラ・モンスーンチーフ・ジェイ・ストロンボーイワン・プトスキーらと共に、マディソン・スクエア・ガーデンのミッドカードに欠かせない人気者となる。ブルーノ・サンマルチノペドロ・モラレスともタッグを組み、1977年6月6日にはスーパースター・ビリー・グラハムWWWF世界ヘビー級王座にも挑戦した。
1978年6月にはWWFとの提携ルートで新日本プロレスの『サマー・ファイト・シリーズ』に参戦、10年ぶりの来日を果たしたが、日プロ参戦時と比べ体重は大幅に落ちていた〔。同シリーズではピーター・メイビアと組んで坂口征二&ストロング小林北米タッグ王座に挑戦、アントニオ猪木とのシングルマッチも行われている。なお、このシリーズには当時WWFでメイビアのマネージャーを務めていたフレッド・ブラッシーも来日しており、WWFではベビーフェイスのカルホーンも仇敵ブラッシーをマネージャー役にしてヒールを演じた。翌1979年6月には新日本のブッキングでアンドレ・ザ・ジャイアントと共に国際プロレスに特別参加している。
その後、健康状態が悪化して1980年代初頭に引退。1986年糖尿病のため左足を失い、1989年12月7日に死去。。晩年の体重は150kgほどまで減少していた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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