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チーフ・ジェイ・ストロンボー : ミニ英和和英辞書
チーフ・ジェイ・ストロンボー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

チーフ・ジェイ・ストロンボー : ウィキペディア日本語版
チーフ・ジェイ・ストロンボー[ちょうおん]

チーフ・ジェイ・ストロンボーChief Jay Strongbow)のリングネームで知られるジョー・スカルパJoe Scarpa、本名:Joseph Luke Scarpa1928年10月4日 - 2012年4月3日)は、アメリカ合衆国プロレスラーペンシルベニア州フィラデルフィア出身。
実際にはイタリア系の出自だが、インディアンギミックの選手ではワフー・マクダニエルと並ぶ屈指のビッグネームであり、ベビーフェイス陣営の重鎮として長年WWEを支えた。日本でのニックネームは「荒鷲酋長」。
== 来歴 ==
1947年ジョー・スカルパの名でデビュー。以降1960年代全般にかけて、NWAジョージア地区ミッドアメリカ地区ガルフ・コースト地区などで活躍し、各地区のシングルおよびタッグ王座を幾度となく獲得。日本には、1966年1月に日本プロレスに初来日している。1967年12月にはフロリダ地区ジョニー・バレンタインを破り、NWAフロリダ・ヘビー級チャンピオンとなった。
1970年よりWWWFに参戦し、インディアン・ギミックのチーフ・ジェイ・ストロンボーに変身。このキャラクターがニューヨークの観客に愛され、同地区で大ブレイクした。主戦場としたニューヨークでは "人間発電所" ブルーノ・サンマルチノとタッグを組み、バリアント・ブラザーズと激しい抗争を繰り広げた。また、他地区にも精力的に遠征しており、デトロイトではザ・シークと流血の抗争を展開した。
1978年4月には新日本プロレスの第1回MSGシリーズに参加、予選トーナメントで藤原喜明バロン・シクルナを破り、決勝リーグに進出してアントニオ猪木アンドレ・ザ・ジャイアントと闘った。
WWWF / WWFではスーパースター・ビリー・グラハムグレッグ・バレンタインを相手にインディアン・ストラップ・マッチを行い、ラフファイトの強さも見せた。タッグ戦線では1972年ソニー・キング1976年ビリー・ホワイト・ウルフ1982年に「弟」のジュールズ・ストロンボー(実際には血縁関係はない)と、パートナーを替えながらWWWF世界タッグ王座(WWFタッグ王座)を通算4度獲得。1985年の引退まで、一貫してベビーフェイス陣営で長く活躍した。
引退後はロード・エージェントとして1999年までWWFで働き、1994年にはWWF殿堂に迎えられた(殿堂入りのインダクターは、当時ストロンボーの弟子として活躍していたインディアン・レスラーのタタンカが務めた)。晩年もゲストとしてWWEに登場したことがあり、2008年11月17日のRAWアトランタ大会)ではステファニー・マクマホンからWWE殿堂者として紹介された。
インディアン選手の代名詞でもある『戦いの踊り』や雄たけびを好んで試合に取り入れ、ショー・プロレスの先駆者存在でもあった。そんな彼らしく、「入場と退場が、試合で最も大切なムーブだ」という言葉を残している。
2012年4月3日、死去〔。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「チーフ・ジェイ・ストロンボー」の詳細全文を読む




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