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ロシア : ミニ英和和英辞書
ロシア
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ロシア : ウィキペディア日本語版
ロシア

ロシア連邦(ロシアれんぽう、)、またはロシア () は、ユーラシア大陸北部の国である。ロシアの国境は、北西から南東へ、ノルウェーフィンランドエストニアラトビアリトアニアおよびポーランド(ともにカリーニングラード州と隣接)、ベラルーシウクライナグルジアアゼルバイジャンカザフスタン中華人民共和国モンゴル国朝鮮民主主義人民共和国と接する。海上境界線としては、日本とはオホーツク海宗谷海峡根室海峡北方領土を日本領とみなした場合は択捉水道)で、アメリカ合衆国とはベーリング海峡アラスカ州と接する。ロシアの面積は17,075,400km²で世界最大であり、地球上の居住地域の8分の1を占める。2012年時点で、ロシアの人口は1億4千3百万人で世界第9位である〔 Official estimate as of 1 September 2012.〕。国土は北アジア全体および東ヨーロッパの大部分に広がることに伴い、ロシアは11の標準時を有し、広範な環境および地形を包含する
ロシアの歴史は、3世紀から8世紀までの間にヨーロッパで認識され始めた東スラヴ人の歴史に始まる。9世紀、ヴァリャーグの戦士の精鋭およびその子孫により設立及び統治され、キエフ大公国中世国家が誕生した。988年、東ローマ帝国から正教会を導入し、次の千年紀ロシア文化を特徴付ける東ローマ帝国およびスラブ人の文化の統合が始まった。キエフ大公国は最終的には多くの国に分裂し、キエフ大公国の領土の大部分はモンゴルに制圧され、遊牧国家ジョチ・ウルスの属国になった〔Michael Prawdin and Gérard Chaliand, ''The Mongol Empire: Its Rise and Legacy'' (2005) pp. 512–550〕。モスクワ大公国は次第に周辺のロシアの公国を再統合し、ジョチ・ウルスからの独立を獲得し、キエフ大公国の文化的および政治的な遺産を支配するようになった。18世紀までにモスクワ大公国は、征服、併合、探検を通じ、史上第3位の大帝国であるロシア帝国となり、ヨーロッパのポーランドから北アメリカのアラスカまで広がった〔Peter Turchin, Thomas D. Hall and Jonathan M. Adams, "East-West Orientation of Historical Empires ", ''Journal of World-Systems Research'' Vol. 12 (no. 2), pp. 219–229 (2006).〕。
ロシア革命後、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国ソビエト連邦最大かつ指導的な構成国となり、世界初の憲法上の社会主義国および広く認められた超大国となり、第二次世界大戦において連合国の勝利に決定的な役割を果たした〔Rozhnov, Konstantin, "Who won World War II? ". BBC.〕。ソビエト時代には、世界初の人工衛星および世界初の有人宇宙飛行を含む20世紀の最も重要な複数の技術的偉業を経験した。1991年のソ連崩壊後、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国は自らをロシア連邦として再構成し、連邦国家の継続的な法人格として認識されている。
2014年時点で、ロシアの経済名目GDP世界第9位かつ購買力平価世界第6位であった〔GDP, PPP (current international $) | Data | Table 〕。ロシアの豊富な鉱物およびエネルギー資源は世界最大の埋蔵量であり、世界最大の原油生産国および世界最大の天然ガス生産国の一つである。ロシアは核保有を認められた5大国の一つであり、世界最大の大量破壊兵器保有量がある。ロシアは列強および国際連合安全保障理事会常任理事国であり、独立国家共同体の指導国であるだけでなく、G20欧州評議会アジア太平洋経済協力上海協力機構ユーラシア経済共同体欧州安全保障協力機構 (OSCE)、世界貿易機関 (WTO) 加盟国である。
== 国名 ==

正式名称はラテン文字転写: '、ラスィーイスカヤ・フィヂラーツィヤIPA: )、または('、ラスィーヤ、 )。これはそれぞれ日本語表記のロシア連邦、ロシアに相当するが、憲法で双方とも正式名称であるとされている〔ロシア連邦憲法第1編第1章第1条第2項。Constitution of Russia(英訳) 参照。〕。略称は (')。
キリル文字ラテン文字転写、ロシア語のカタカナ表記にはいずれも多数の方式、表記があり、ここに挙げたものは一例である(本記事の以下の転写も同じ)。
日本語表記は以前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが、1980年代頃からギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった。なお1991年(平成3年)の内閣告示『外来語の表記』には、細則的な事項として「''イ列・エ列の音の次のアの音に当たるものは、原則として「ア」と書く。''」とあり、これに従った場合の表記はロシアになる。現代日本語の漢字表記は露西亜で、略称は露〔ソビエト連邦崩壊直後、日本の新聞では毎日新聞産経新聞が旧ロシア帝国と同じ「露」を使用する一方で、朝日新聞読売新聞は旧ロシア帝国と区別するため「ロ」と表記していた。しかし、片仮名で「ロ」と表記すると「(くち)」と誤認され易いため、近年では読売新聞も「露」に転換しており、「ロ」の表記は朝日以外にNHK共同通信(但し、加盟社でも中国新聞のように「露」を使用する社もある)が使用しているものの少数となりつつある。英語では、帝国時代を「」、大統領制時代を「」として両者を区別し、現在の大統領制時代を指す場合は単に「」とせず、「」ないし「」と、国号についている「連邦」を強調する表記を用いる場合が多い。なお、日本国の外務省は「露」を用いている。〕。江戸時代にはオロシャ、をろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語の(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた当時の日本政府は、ロシア側の希望を容れ表記を露西亜とした。だが露の字も「日(=日本)が昇ると(ろ・つゆ)は消える」というマイナスイメージがあることから、この様な表記の変更を敢えて受け入れたことに当時の対ロシア観が現れているとする見方もある〔, pp.4-5〕。
ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語名から派生した(現代ギリシャ語では)の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀イヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。
ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語〔ルーシは伝統的にギリシャからの文明的影響を受けてきており、より高等な文明の地であるギリシャの言語の使用はヨーロッパ国家として意義のあることであった。また、外国からも古東スラヴ語名の「ルーシ」ではなくギリシャ語で呼ばれることが少なくなかった。〕はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」〔大ルーシ〕現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」〔小ルーシ時期により指す地方が異なる。〕と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」〔白ルーシ。〕という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された〔いわゆる「モスクワ第3ローマ論」であるが、この論は当初は宗教的側面からの戒めを説くもので、必ずしもロシアの帝国化を正当化するために考案された理論でもなかった。〕。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった〔「ルーシ」の語には様々な地域概念があり、政治に都合よく使われてきた用語である。当初、モスクワ大公国が用いた意味での「ルーシ」はノヴゴロド・ルーシを起源とした北東地域を指していたが(当時の宗主ジョチ・ウルス宛ての文書でモスクワ大公はその地域を指して「ルーシ」と呼んでいる)、やがてはジョチ・ウルスに対抗するためのアイデンティティーの拠り所として諸公の団結の合言葉に用いられ、その後モスクワ国家の強大化とロシア帝国の完成課程で「ルーシ」はかつてのキエフ・ルーシ全体の地域概念を指す用語にすり替えられた。そして、その用法における「ルーシの再統一」が、モスクワ国家=ロシア帝国がベラルーシやウクライナ全土、果ては「緑ルーシ」と名付けられたシベリア(無論、そう名付けられるまで「ルーシ」の地域ではなかった)を併合する大義名分となった。その論法はソ連邦の結成時にも使用された(国歌に謳われるとおりである)。〕。''(ラテン文字転写: '、ラスィーイスカヤ・フィヂラーツィヤIPA: )、または('、ラスィーヤ、 )。これはそれぞれ日本語表記のロシア連邦、ロシアに相当するが、憲法で双方とも正式名称であるとされている〔ロシア連邦憲法第1編第1章第1条第2項。Constitution of Russia(英訳) 参照。〕。略称は (')。
キリル文字ラテン文字転写、ロシア語のカタカナ表記にはいずれも多数の方式、表記があり、ここに挙げたものは一例である(本記事の以下の転写も同じ)。
日本語表記は以前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが、1980年代頃からギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった。なお1991年(平成3年)の内閣告示『外来語の表記』には、細則的な事項として「''イ列・エ列の音の次のアの音に当たるものは、原則として「ア」と書く。''」とあり、これに従った場合の表記はロシアになる。現代日本語の漢字表記は露西亜で、略称は露〔ソビエト連邦崩壊直後、日本の新聞では毎日新聞産経新聞が旧ロシア帝国と同じ「露」を使用する一方で、朝日新聞読売新聞は旧ロシア帝国と区別するため「ロ」と表記していた。しかし、片仮名で「ロ」と表記すると「(くち)」と誤認され易いため、近年では読売新聞も「露」に転換しており、「ロ」の表記は朝日以外にNHK共同通信(但し、加盟社でも中国新聞のように「露」を使用する社もある)が使用しているものの少数となりつつある。英語では、帝国時代を「」、大統領制時代を「」として両者を区別し、現在の大統領制時代を指す場合は単に「」とせず、「」ないし「」と、国号についている「連邦」を強調する表記を用いる場合が多い。なお、日本国の外務省は「露」を用いている。〕。江戸時代にはオロシャ、をろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語の(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた当時の日本政府は、ロシア側の希望を容れ表記を露西亜とした。だが露の字も「日(=日本)が昇ると(ろ・つゆ)は消える」というマイナスイメージがあることから、この様な表記の変更を敢えて受け入れたことに当時の対ロシア観が現れているとする見方もある〔, pp.4-5〕。
ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語名から派生した(現代ギリシャ語では)の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀イヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。
ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語〔ルーシは伝統的にギリシャからの文明的影響を受けてきており、より高等な文明の地であるギリシャの言語の使用はヨーロッパ国家として意義のあることであった。また、外国からも古東スラヴ語名の「ルーシ」ではなくギリシャ語で呼ばれることが少なくなかった。〕はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」〔大ルーシ〕現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」〔小ルーシ時期により指す地方が異なる。〕と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」〔白ルーシ。〕という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された〔いわゆる「モスクワ第3ローマ論」であるが、この論は当初は宗教的側面からの戒めを説くもので、必ずしもロシアの帝国化を正当化するために考案された理論でもなかった。〕。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった〔「ルーシ」の語には様々な地域概念があり、政治に都合よく使われてきた用語である。当初、モスクワ大公国が用いた意味での「ルーシ」はノヴゴロド・ルーシを起源とした北東地域を指していたが(当時の宗主ジョチ・ウルス宛ての文書でモスクワ大公はその地域を指して「ルーシ」と呼んでいる)、やがてはジョチ・ウルスに対抗するためのアイデンティティーの拠り所として諸公の団結の合言葉に用いられ、その後モスクワ国家の強大化とロシア帝国の完成課程で「ルーシ」はかつてのキエフ・ルーシ全体の地域概念を指す用語にすり替えられた。そして、その用法における「ルーシの再統一」が、モスクワ国家=ロシア帝国がベラルーシやウクライナ全土、果ては「緑ルーシ」と名付けられたシベリア(無論、そう名付けられるまで「ルーシ」の地域ではなかった)を併合する大義名分となった。その論法はソ連邦の結成時にも使用された(国歌に謳われるとおりである)。〕。ラスィーイスカヤ・フィヂラーツィヤIPA: )、または('、ラスィーヤ、 )。これはそれぞれ日本語表記のロシア連邦、ロシアに相当するが、憲法で双方とも正式名称であるとされている〔ロシア連邦憲法第1編第1章第1条第2項。Constitution of Russia(英訳) 参照。〕。略称は (')。
キリル文字ラテン文字転写、ロシア語のカタカナ表記にはいずれも多数の方式、表記があり、ここに挙げたものは一例である(本記事の以下の転写も同じ)。
日本語表記は以前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが、1980年代頃からギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった。なお1991年(平成3年)の内閣告示『外来語の表記』には、細則的な事項として「''イ列・エ列の音の次のアの音に当たるものは、原則として「ア」と書く。''」とあり、これに従った場合の表記はロシアになる。現代日本語の漢字表記は露西亜で、略称は露〔ソビエト連邦崩壊直後、日本の新聞では毎日新聞産経新聞が旧ロシア帝国と同じ「露」を使用する一方で、朝日新聞読売新聞は旧ロシア帝国と区別するため「ロ」と表記していた。しかし、片仮名で「ロ」と表記すると「(くち)」と誤認され易いため、近年では読売新聞も「露」に転換しており、「ロ」の表記は朝日以外にNHK共同通信(但し、加盟社でも中国新聞のように「露」を使用する社もある)が使用しているものの少数となりつつある。英語では、帝国時代を「」、大統領制時代を「」として両者を区別し、現在の大統領制時代を指す場合は単に「」とせず、「」ないし「」と、国号についている「連邦」を強調する表記を用いる場合が多い。なお、日本国の外務省は「露」を用いている。〕。江戸時代にはオロシャ、をろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語の(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた当時の日本政府は、ロシア側の希望を容れ表記を露西亜とした。だが露の字も「日(=日本)が昇ると(ろ・つゆ)は消える」というマイナスイメージがあることから、この様な表記の変更を敢えて受け入れたことに当時の対ロシア観が現れているとする見方もある〔, pp.4-5〕。
ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語名から派生した(現代ギリシャ語では)の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀イヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。
ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語〔ルーシは伝統的にギリシャからの文明的影響を受けてきており、より高等な文明の地であるギリシャの言語の使用はヨーロッパ国家として意義のあることであった。また、外国からも古東スラヴ語名の「ルーシ」ではなくギリシャ語で呼ばれることが少なくなかった。〕はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」〔大ルーシ〕現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」〔小ルーシ時期により指す地方が異なる。〕と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」〔白ルーシ。〕という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された〔いわゆる「モスクワ第3ローマ論」であるが、この論は当初は宗教的側面からの戒めを説くもので、必ずしもロシアの帝国化を正当化するために考案された理論でもなかった。〕。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった〔「ルーシ」の語には様々な地域概念があり、政治に都合よく使われてきた用語である。当初、モスクワ大公国が用いた意味での「ルーシ」はノヴゴロド・ルーシを起源とした北東地域を指していたが(当時の宗主ジョチ・ウルス宛ての文書でモスクワ大公はその地域を指して「ルーシ」と呼んでいる)、やがてはジョチ・ウルスに対抗するためのアイデンティティーの拠り所として諸公の団結の合言葉に用いられ、その後モスクワ国家の強大化とロシア帝国の完成課程で「ルーシ」はかつてのキエフ・ルーシ全体の地域概念を指す用語にすり替えられた。そして、その用法における「ルーシの再統一」が、モスクワ国家=ロシア帝国がベラルーシやウクライナ全土、果ては「緑ルーシ」と名付けられたシベリア(無論、そう名付けられるまで「ルーシ」の地域ではなかった)を併合する大義名分となった。その論法はソ連邦の結成時にも使用された(国歌に謳われるとおりである)。〕。''('、ラスィーヤ、 )。これはそれぞれ日本語表記のロシア連邦、ロシアに相当するが、憲法で双方とも正式名称であるとされている〔ロシア連邦憲法第1編第1章第1条第2項。Constitution of Russia(英訳) 参照。〕。略称は (')。
キリル文字ラテン文字転写、ロシア語のカタカナ表記にはいずれも多数の方式、表記があり、ここに挙げたものは一例である(本記事の以下の転写も同じ)。
日本語表記は以前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが、1980年代頃からギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった。なお1991年(平成3年)の内閣告示『外来語の表記』には、細則的な事項として「''イ列・エ列の音の次のアの音に当たるものは、原則として「ア」と書く。''」とあり、これに従った場合の表記はロシアになる。現代日本語の漢字表記は露西亜で、略称は露〔ソビエト連邦崩壊直後、日本の新聞では毎日新聞産経新聞が旧ロシア帝国と同じ「露」を使用する一方で、朝日新聞読売新聞は旧ロシア帝国と区別するため「ロ」と表記していた。しかし、片仮名で「ロ」と表記すると「(くち)」と誤認され易いため、近年では読売新聞も「露」に転換しており、「ロ」の表記は朝日以外にNHK共同通信(但し、加盟社でも中国新聞のように「露」を使用する社もある)が使用しているものの少数となりつつある。英語では、帝国時代を「」、大統領制時代を「」として両者を区別し、現在の大統領制時代を指す場合は単に「」とせず、「」ないし「」と、国号についている「連邦」を強調する表記を用いる場合が多い。なお、日本国の外務省は「露」を用いている。〕。江戸時代にはオロシャ、をろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語の(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた当時の日本政府は、ロシア側の希望を容れ表記を露西亜とした。だが露の字も「日(=日本)が昇ると(ろ・つゆ)は消える」というマイナスイメージがあることから、この様な表記の変更を敢えて受け入れたことに当時の対ロシア観が現れているとする見方もある〔, pp.4-5〕。
ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語名から派生した(現代ギリシャ語では)の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀イヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。
ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語〔ルーシは伝統的にギリシャからの文明的影響を受けてきており、より高等な文明の地であるギリシャの言語の使用はヨーロッパ国家として意義のあることであった。また、外国からも古東スラヴ語名の「ルーシ」ではなくギリシャ語で呼ばれることが少なくなかった。〕はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」〔大ルーシ〕現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」〔小ルーシ時期により指す地方が異なる。〕と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」〔白ルーシ。〕という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された〔いわゆる「モスクワ第3ローマ論」であるが、この論は当初は宗教的側面からの戒めを説くもので、必ずしもロシアの帝国化を正当化するために考案された理論でもなかった。〕。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった〔「ルーシ」の語には様々な地域概念があり、政治に都合よく使われてきた用語である。当初、モスクワ大公国が用いた意味での「ルーシ」はノヴゴロド・ルーシを起源とした北東地域を指していたが(当時の宗主ジョチ・ウルス宛ての文書でモスクワ大公はその地域を指して「ルーシ」と呼んでいる)、やがてはジョチ・ウルスに対抗するためのアイデンティティーの拠り所として諸公の団結の合言葉に用いられ、その後モスクワ国家の強大化とロシア帝国の完成課程で「ルーシ」はかつてのキエフ・ルーシ全体の地域概念を指す用語にすり替えられた。そして、その用法における「ルーシの再統一」が、モスクワ国家=ロシア帝国がベラルーシやウクライナ全土、果ては「緑ルーシ」と名付けられたシベリア(無論、そう名付けられるまで「ルーシ」の地域ではなかった)を併合する大義名分となった。その論法はソ連邦の結成時にも使用された(国歌に謳われるとおりである)。〕。ラスィーヤ、 )。これはそれぞれ日本語表記のロシア連邦ロシアに相当するが、憲法で双方とも正式名称であるとされている〔ロシア連邦憲法第1編第1章第1条第2項。Constitution of Russia(英訳) 参照。〕。略称は (')。
キリル文字ラテン文字転写、ロシア語のカタカナ表記にはいずれも多数の方式、表記があり、ここに挙げたものは一例である(本記事の以下の転写も同じ)。
日本語表記は以前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが、1980年代頃からギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった。なお1991年(平成3年)の内閣告示『外来語の表記』には、細則的な事項として「''イ列・エ列の音の次のアの音に当たるものは、原則として「ア」と書く。''」とあり、これに従った場合の表記はロシアになる。現代日本語の漢字表記は露西亜で、略称は露〔ソビエト連邦崩壊直後、日本の新聞では毎日新聞産経新聞が旧ロシア帝国と同じ「露」を使用する一方で、朝日新聞読売新聞は旧ロシア帝国と区別するため「ロ」と表記していた。しかし、片仮名で「ロ」と表記すると「(くち)」と誤認され易いため、近年では読売新聞も「露」に転換しており、「ロ」の表記は朝日以外にNHK共同通信(但し、加盟社でも中国新聞のように「露」を使用する社もある)が使用しているものの少数となりつつある。英語では、帝国時代を「」、大統領制時代を「」として両者を区別し、現在の大統領制時代を指す場合は単に「」とせず、「」ないし「」と、国号についている「連邦」を強調する表記を用いる場合が多い。なお、日本国の外務省は「露」を用いている。〕。江戸時代にはオロシャ、をろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語の(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた当時の日本政府は、ロシア側の希望を容れ表記を露西亜とした。だが露の字も「日(=日本)が昇ると(ろ・つゆ)は消える」というマイナスイメージがあることから、この様な表記の変更を敢えて受け入れたことに当時の対ロシア観が現れているとする見方もある〔, pp.4-5〕。
ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語名から派生した(現代ギリシャ語では)の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀イヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。
ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語〔ルーシは伝統的にギリシャからの文明的影響を受けてきており、より高等な文明の地であるギリシャの言語の使用はヨーロッパ国家として意義のあることであった。また、外国からも古東スラヴ語名の「ルーシ」ではなくギリシャ語で呼ばれることが少なくなかった。〕はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」〔大ルーシ〕現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」〔小ルーシ時期により指す地方が異なる。〕と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」〔白ルーシ。〕という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された〔いわゆる「モスクワ第3ローマ論」であるが、この論は当初は宗教的側面からの戒めを説くもので、必ずしもロシアの帝国化を正当化するために考案された理論でもなかった。〕。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった〔「ルーシ」の語には様々な地域概念があり、政治に都合よく使われてきた用語である。当初、モスクワ大公国が用いた意味での「ルーシ」はノヴゴロド・ルーシを起源とした北東地域を指していたが(当時の宗主ジョチ・ウルス宛ての文書でモスクワ大公はその地域を指して「ルーシ」と呼んでいる)、やがてはジョチ・ウルスに対抗するためのアイデンティティーの拠り所として諸公の団結の合言葉に用いられ、その後モスクワ国家の強大化とロシア帝国の完成課程で「ルーシ」はかつてのキエフ・ルーシ全体の地域概念を指す用語にすり替えられた。そして、その用法における「ルーシの再統一」が、モスクワ国家=ロシア帝国がベラルーシやウクライナ全土、果ては「緑ルーシ」と名付けられたシベリア(無論、そう名付けられるまで「ルーシ」の地域ではなかった)を併合する大義名分となった。その論法はソ連邦の結成時にも使用された(国歌に謳われるとおりである)。〕。'' (')。
キリル文字ラテン文字転写、ロシア語のカタカナ表記にはいずれも多数の方式、表記があり、ここに挙げたものは一例である(本記事の以下の転写も同じ)。
日本語表記は以前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが、1980年代頃からギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった。なお1991年(平成3年)の内閣告示『外来語の表記』には、細則的な事項として「''イ列・エ列の音の次のアの音に当たるものは、原則として「ア」と書く。''」とあり、これに従った場合の表記はロシアになる。現代日本語の漢字表記は露西亜で、略称は露〔ソビエト連邦崩壊直後、日本の新聞では毎日新聞産経新聞が旧ロシア帝国と同じ「露」を使用する一方で、朝日新聞読売新聞は旧ロシア帝国と区別するため「ロ」と表記していた。しかし、片仮名で「ロ」と表記すると「(くち)」と誤認され易いため、近年では読売新聞も「露」に転換しており、「ロ」の表記は朝日以外にNHK共同通信(但し、加盟社でも中国新聞のように「露」を使用する社もある)が使用しているものの少数となりつつある。英語では、帝国時代を「」、大統領制時代を「」として両者を区別し、現在の大統領制時代を指す場合は単に「」とせず、「」ないし「」と、国号についている「連邦」を強調する表記を用いる場合が多い。なお、日本国の外務省は「露」を用いている。〕。江戸時代にはオロシャ、をろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語の(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた当時の日本政府は、ロシア側の希望を容れ表記を露西亜とした。だが露の字も「日(=日本)が昇ると(ろ・つゆ)は消える」というマイナスイメージがあることから、この様な表記の変更を敢えて受け入れたことに当時の対ロシア観が現れているとする見方もある〔, pp.4-5〕。
ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語名から派生した(現代ギリシャ語では)の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀イヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。
ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語〔ルーシは伝統的にギリシャからの文明的影響を受けてきており、より高等な文明の地であるギリシャの言語の使用はヨーロッパ国家として意義のあることであった。また、外国からも古東スラヴ語名の「ルーシ」ではなくギリシャ語で呼ばれることが少なくなかった。〕はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」〔大ルーシ〕現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」〔小ルーシ時期により指す地方が異なる。〕と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」〔白ルーシ。〕という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された〔いわゆる「モスクワ第3ローマ論」であるが、この論は当初は宗教的側面からの戒めを説くもので、必ずしもロシアの帝国化を正当化するために考案された理論でもなかった。〕。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった〔「ルーシ」の語には様々な地域概念があり、政治に都合よく使われてきた用語である。当初、モスクワ大公国が用いた意味での「ルーシ」はノヴゴロド・ルーシを起源とした北東地域を指していたが(当時の宗主ジョチ・ウルス宛ての文書でモスクワ大公はその地域を指して「ルーシ」と呼んでいる)、やがてはジョチ・ウルスに対抗するためのアイデンティティーの拠り所として諸公の団結の合言葉に用いられ、その後モスクワ国家の強大化とロシア帝国の完成課程で「ルーシ」はかつてのキエフ・ルーシ全体の地域概念を指す用語にすり替えられた。そして、その用法における「ルーシの再統一」が、モスクワ国家=ロシア帝国がベラルーシやウクライナ全土、果ては「緑ルーシ」と名付けられたシベリア(無論、そう名付けられるまで「ルーシ」の地域ではなかった)を併合する大義名分となった。その論法はソ連邦の結成時にも使用された(国歌に謳われるとおりである)。〕。)。
キリル文字ラテン文字転写、ロシア語のカタカナ表記にはいずれも多数の方式、表記があり、ここに挙げたものは一例である(本記事の以下の転写も同じ)。
日本語表記は以前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが、1980年代頃からギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった。なお1991年(平成3年)の内閣告示『外来語の表記』には、細則的な事項として「''イ列・エ列の音の次のアの音に当たるものは、原則として「ア」と書く。''」とあり、これに従った場合の表記はロシアになる。現代日本語の漢字表記露西亜で、略称はソビエト連邦崩壊直後、日本の新聞では毎日新聞産経新聞が旧ロシア帝国と同じ「露」を使用する一方で、朝日新聞読売新聞は旧ロシア帝国と区別するため「」と表記していた。しかし、片仮名で「」と表記すると「(くち)」と誤認され易いため、近年では読売新聞も「露」に転換しており、「ロ」の表記は朝日以外にNHK共同通信(但し、加盟社でも中国新聞のように「露」を使用する社もある)が使用しているものの少数となりつつある。英語では、帝国時代を「」、大統領制時代を「」として両者を区別し、現在の大統領制時代を指す場合は単に「」とせず、「」ないし「」と、国号についている「連邦」を強調する表記を用いる場合が多い。なお、日本国の外務省は「露」を用いている。〕。江戸時代にはオロシャ、をろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語の(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた当時の日本政府は、ロシア側の希望を容れ表記を露西亜とした。だが露の字も「日(=日本)が昇ると(ろ・つゆ)は消える」というマイナスイメージがあることから、この様な表記の変更を敢えて受け入れたことに当時の対ロシア観が現れているとする見方もある〔, pp.4-5〕。
ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語名から派生した(現代ギリシャ語では)の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀イヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。
ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語〔ルーシは伝統的にギリシャからの文明的影響を受けてきており、より高等な文明の地であるギリシャの言語の使用はヨーロッパ国家として意義のあることであった。また、外国からも古東スラヴ語名の「ルーシ」ではなくギリシャ語で呼ばれることが少なくなかった。〕はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」〔大ルーシ〕現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」〔小ルーシ時期により指す地方が異なる。〕と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」〔白ルーシ。〕という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された〔いわゆる「モスクワ第3ローマ論」であるが、この論は当初は宗教的側面からの戒めを説くもので、必ずしもロシアの帝国化を正当化するために考案された理論でもなかった。〕。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった〔「ルーシ」の語には様々な地域概念があり、政治に都合よく使われてきた用語である。当初、モスクワ大公国が用いた意味での「ルーシ」はノヴゴロド・ルーシを起源とした北東地域を指していたが(当時の宗主ジョチ・ウルス宛ての文書でモスクワ大公はその地域を指して「ルーシ」と呼んでいる)、やがてはジョチ・ウルスに対抗するためのアイデンティティーの拠り所として諸公の団結の合言葉に用いられ、その後モスクワ国家の強大化とロシア帝国の完成課程で「ルーシ」はかつてのキエフ・ルーシ全体の地域概念を指す用語にすり替えられた。そして、その用法における「ルーシの再統一」が、モスクワ国家=ロシア帝国がベラルーシやウクライナ全土、果ては「緑ルーシ」と名付けられたシベリア(無論、そう名付けられるまで「ルーシ」の地域ではなかった)を併合する大義名分となった。その論法はソ連邦の結成時にも使用された(国歌に謳われるとおりである)。〕。''」、大統領制時代を「」として両者を区別し、現在の大統領制時代を指す場合は単に「」とせず、「」ないし「」と、国号についている「連邦」を強調する表記を用いる場合が多い。なお、日本国の外務省は「露」を用いている。〕。江戸時代にはオロシャ、をろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語の(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた当時の日本政府は、ロシア側の希望を容れ表記を露西亜とした。だが露の字も「日(=日本)が昇ると(ろ・つゆ)は消える」というマイナスイメージがあることから、この様な表記の変更を敢えて受け入れたことに当時の対ロシア観が現れているとする見方もある〔, pp.4-5〕。
ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語名から派生した(現代ギリシャ語では)の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀イヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。
ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語〔ルーシは伝統的にギリシャからの文明的影響を受けてきており、より高等な文明の地であるギリシャの言語の使用はヨーロッパ国家として意義のあることであった。また、外国からも古東スラヴ語名の「ルーシ」ではなくギリシャ語で呼ばれることが少なくなかった。〕はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」〔大ルーシ〕現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」〔小ルーシ時期により指す地方が異なる。〕と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」〔白ルーシ。〕という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された〔いわゆる「モスクワ第3ローマ論」であるが、この論は当初は宗教的側面からの戒めを説くもので、必ずしもロシアの帝国化を正当化するために考案された理論でもなかった。〕。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった〔「ルーシ」の語には様々な地域概念があり、政治に都合よく使われてきた用語である。当初、モスクワ大公国が用いた意味での「ルーシ」はノヴゴロド・ルーシを起源とした北東地域を指していたが(当時の宗主ジョチ・ウルス宛ての文書でモスクワ大公はその地域を指して「ルーシ」と呼んでいる)、やがてはジョチ・ウルスに対抗するためのアイデンティティーの拠り所として諸公の団結の合言葉に用いられ、その後モスクワ国家の強大化とロシア帝国の完成課程で「ルーシ」はかつてのキエフ・ルーシ全体の地域概念を指す用語にすり替えられた。そして、その用法における「ルーシの再統一」が、モスクワ国家=ロシア帝国がベラルーシやウクライナ全土、果ては「緑ルーシ」と名付けられたシベリア(無論、そう名付けられるまで「ルーシ」の地域ではなかった)を併合する大義名分となった。その論法はソ連邦の結成時にも使用された(国歌に謳われるとおりである)。〕。''」として両者を区別し、現在の大統領制時代を指す場合は単に「」とせず、「」ないし「」と、国号についている「連邦」を強調する表記を用いる場合が多い。なお、日本国の外務省は「露」を用いている。〕。江戸時代にはオロシャ、をろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語の(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた当時の日本政府は、ロシア側の希望を容れ表記を露西亜とした。だが露の字も「日(=日本)が昇ると(ろ・つゆ)は消える」というマイナスイメージがあることから、この様な表記の変更を敢えて受け入れたことに当時の対ロシア観が現れているとする見方もある〔, pp.4-5〕。
ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語名から派生した(現代ギリシャ語では)の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀イヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。
ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語〔ルーシは伝統的にギリシャからの文明的影響を受けてきており、より高等な文明の地であるギリシャの言語の使用はヨーロッパ国家として意義のあることであった。また、外国からも古東スラヴ語名の「ルーシ」ではなくギリシャ語で呼ばれることが少なくなかった。〕はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」〔大ルーシ〕現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」〔小ルーシ時期により指す地方が異なる。〕と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」〔白ルーシ。〕という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された〔いわゆる「モスクワ第3ローマ論」であるが、この論は当初は宗教的側面からの戒めを説くもので、必ずしもロシアの帝国化を正当化するために考案された理論でもなかった。〕。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった〔「ルーシ」の語には様々な地域概念があり、政治に都合よく使われてきた用語である。当初、モスクワ大公国が用いた意味での「ルーシ」はノヴゴロド・ルーシを起源とした北東地域を指していたが(当時の宗主ジョチ・ウルス宛ての文書でモスクワ大公はその地域を指して「ルーシ」と呼んでいる)、やがてはジョチ・ウルスに対抗するためのアイデンティティーの拠り所として諸公の団結の合言葉に用いられ、その後モスクワ国家の強大化とロシア帝国の完成課程で「ルーシ」はかつてのキエフ・ルーシ全体の地域概念を指す用語にすり替えられた。そして、その用法における「ルーシの再統一」が、モスクワ国家=ロシア帝国がベラルーシやウクライナ全土、果ては「緑ルーシ」と名付けられたシベリア(無論、そう名付けられるまで「ルーシ」の地域ではなかった)を併合する大義名分となった。その論法はソ連邦の結成時にも使用された(国歌に謳われるとおりである)。〕。''」とせず、「」ないし「」と、国号についている「連邦」を強調する表記を用いる場合が多い。なお、日本国の外務省は「露」を用いている。〕。江戸時代にはオロシャ、をろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語の(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた当時の日本政府は、ロシア側の希望を容れ表記を露西亜とした。だが露の字も「日(=日本)が昇ると(ろ・つゆ)は消える」というマイナスイメージがあることから、この様な表記の変更を敢えて受け入れたことに当時の対ロシア観が現れているとする見方もある〔, pp.4-5〕。
ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語名から派生した(現代ギリシャ語では)の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀イヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。
ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語〔ルーシは伝統的にギリシャからの文明的影響を受けてきており、より高等な文明の地であるギリシャの言語の使用はヨーロッパ国家として意義のあることであった。また、外国からも古東スラヴ語名の「ルーシ」ではなくギリシャ語で呼ばれることが少なくなかった。〕はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」〔大ルーシ〕現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」〔小ルーシ時期により指す地方が異なる。〕と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」〔白ルーシ。〕という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された〔いわゆる「モスクワ第3ローマ論」であるが、この論は当初は宗教的側面からの戒めを説くもので、必ずしもロシアの帝国化を正当化するために考案された理論でもなかった。〕。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった〔「ルーシ」の語には様々な地域概念があり、政治に都合よく使われてきた用語である。当初、モスクワ大公国が用いた意味での「ルーシ」はノヴゴロド・ルーシを起源とした北東地域を指していたが(当時の宗主ジョチ・ウルス宛ての文書でモスクワ大公はその地域を指して「ルーシ」と呼んでいる)、やがてはジョチ・ウルスに対抗するためのアイデンティティーの拠り所として諸公の団結の合言葉に用いられ、その後モスクワ国家の強大化とロシア帝国の完成課程で「ルーシ」はかつてのキエフ・ルーシ全体の地域概念を指す用語にすり替えられた。そして、その用法における「ルーシの再統一」が、モスクワ国家=ロシア帝国がベラルーシやウクライナ全土、果ては「緑ルーシ」と名付けられたシベリア(無論、そう名付けられるまで「ルーシ」の地域ではなかった)を併合する大義名分となった。その論法はソ連邦の結成時にも使用された(国歌に謳われるとおりである)。〕。''」ないし「」と、国号についている「連邦」を強調する表記を用いる場合が多い。なお、日本国の外務省は「露」を用いている。〕。江戸時代にはオロシャ、をろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語の(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた当時の日本政府は、ロシア側の希望を容れ表記を露西亜とした。だが露の字も「日(=日本)が昇ると(ろ・つゆ)は消える」というマイナスイメージがあることから、この様な表記の変更を敢えて受け入れたことに当時の対ロシア観が現れているとする見方もある〔, pp.4-5〕。
ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語名から派生した(現代ギリシャ語では)の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀イヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。
ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語〔ルーシは伝統的にギリシャからの文明的影響を受けてきており、より高等な文明の地であるギリシャの言語の使用はヨーロッパ国家として意義のあることであった。また、外国からも古東スラヴ語名の「ルーシ」ではなくギリシャ語で呼ばれることが少なくなかった。〕はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」〔大ルーシ〕現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」〔小ルーシ時期により指す地方が異なる。〕と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」〔白ルーシ。〕という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された〔いわゆる「モスクワ第3ローマ論」であるが、この論は当初は宗教的側面からの戒めを説くもので、必ずしもロシアの帝国化を正当化するために考案された理論でもなかった。〕。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった〔「ルーシ」の語には様々な地域概念があり、政治に都合よく使われてきた用語である。当初、モスクワ大公国が用いた意味での「ルーシ」はノヴゴロド・ルーシを起源とした北東地域を指していたが(当時の宗主ジョチ・ウルス宛ての文書でモスクワ大公はその地域を指して「ルーシ」と呼んでいる)、やがてはジョチ・ウルスに対抗するためのアイデンティティーの拠り所として諸公の団結の合言葉に用いられ、その後モスクワ国家の強大化とロシア帝国の完成課程で「ルーシ」はかつてのキエフ・ルーシ全体の地域概念を指す用語にすり替えられた。そして、その用法における「ルーシの再統一」が、モスクワ国家=ロシア帝国がベラルーシやウクライナ全土、果ては「緑ルーシ」と名付けられたシベリア(無論、そう名付けられるまで「ルーシ」の地域ではなかった)を併合する大義名分となった。その論法はソ連邦の結成時にも使用された(国歌に謳われるとおりである)。〕。''」と、国号についている「連邦」を強調する表記を用いる場合が多い。なお、日本国の外務省は「露」を用いている。〕。江戸時代にはオロシャをろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語の(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた当時の日本政府は、ロシア側の希望を容れ表記を露西亜とした。だが露の字も「日(=日本)が昇ると(ろ・つゆ)は消える」というマイナスイメージがあることから、この様な表記の変更を敢えて受け入れたことに当時の対ロシア観が現れているとする見方もある〔, pp.4-5〕。
ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語名から派生した(現代ギリシャ語では)の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀イヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。
ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語〔ルーシは伝統的にギリシャからの文明的影響を受けてきており、より高等な文明の地であるギリシャの言語の使用はヨーロッパ国家として意義のあることであった。また、外国からも古東スラヴ語名の「ルーシ」ではなくギリシャ語で呼ばれることが少なくなかった。〕はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」〔大ルーシ〕現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」〔小ルーシ時期により指す地方が異なる。〕と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」〔白ルーシ。〕という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された〔いわゆる「モスクワ第3ローマ論」であるが、この論は当初は宗教的側面からの戒めを説くもので、必ずしもロシアの帝国化を正当化するために考案された理論でもなかった。〕。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった〔「ルーシ」の語には様々な地域概念があり、政治に都合よく使われてきた用語である。当初、モスクワ大公国が用いた意味での「ルーシ」はノヴゴロド・ルーシを起源とした北東地域を指していたが(当時の宗主ジョチ・ウルス宛ての文書でモスクワ大公はその地域を指して「ルーシ」と呼んでいる)、やがてはジョチ・ウルスに対抗するためのアイデンティティーの拠り所として諸公の団結の合言葉に用いられ、その後モスクワ国家の強大化とロシア帝国の完成課程で「ルーシ」はかつてのキエフ・ルーシ全体の地域概念を指す用語にすり替えられた。そして、その用法における「ルーシの再統一」が、モスクワ国家=ロシア帝国がベラルーシやウクライナ全土、果ては「緑ルーシ」と名付けられたシベリア(無論、そう名付けられるまで「ルーシ」の地域ではなかった)を併合する大義名分となった。その論法はソ連邦の結成時にも使用された(国歌に謳われるとおりである)。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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