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ジミー・バリアント : ミニ英和和英辞書
ジミー・バリアント[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジミー・バリアント : ウィキペディア日本語版
ジミー・バリアント[ちょうおん]

ジミー・バリアントJimmy Valiant、本名:James Harold Fanning1942年8月6日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーテネシー州フランクリン出身。
現役選手時代はヒール"ハンサム" ジミー・バリアント"Handsome" Jimmy Valiant)、ベビーフェイス"ブギウギ" ジミー・バリアント"Boogie Woogie" Jimmy Valiant)として活躍した。
== 来歴 ==
1964年ビッグ・ジム・ベイレン(''Big Jim Vallen'')のリングネームでデビュー。中西部テキサスなど各地を転戦後、1970年代に入りジミー・バリアント(''Jimmy Valiant'')と改名。1971年よりニューヨークWWWFに登場し、ペドロ・モラレスWWWF世界ヘビー級王座に再三挑戦した。1972年6月にはキラー・コワルスキームース・ショーラックに次ぐ3番手外国人のポジションで日本プロレスに初来日している。
1973年11月、ジョン・L・サリバンことジョニー・バリアントをパートナーに、金髪ヒールタッグチームバリアント・ブラザーズ(''The Valiant Brothers'')」を結成。翌1974年1月5日、インディアナポリスWWAブルーノ・サンマルチノ&ディック・ザ・ブルーザーからWWA世界タッグ王座を奪取。シングルでも、カウボーイ・ボブ・エリスとWWA世界ヘビー級王座を争った。WWWFではキャプテン・ルー・アルバーノマネージャーに迎え、同年5月8日にディーン・ホー&トニー・ガレアを破りWWWF世界タッグ王座を獲得している。
1976年5月にはバリアント・ブラザーズとして全日本プロレスに来日、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田インターナショナル・タッグ王座およびグレート小鹿&大熊元司アジア・タッグ王座の両タイトルに挑戦している。以降もジョニーとのコンビで全米各地を転戦、WWAではボビー・ヒーナンのマネージメントのもと、世界タッグ王座を1977年1978年にも獲得した〔。
シングルでも数々の実績を残しており、テネシー州メンフィスに本拠を置くCWAでは1977年から1981年にかけて、AWA南部ヘビー級王座を巡ってジェリー・ローラーと流血の抗争を繰り広げた。CWAでは一時的にフェイスターンも行い、ローラーやロッキー・ジョンソンのパートナーとなってタッグ戦線でも活躍。1978年5月29日にはローラーと組んでジョー・ルダック&ジャン・ルイから、1980年5月12日にはジョンソンと組んでデビッド・シュルツ&デニス・コンドリーから、AWA南部タッグ王座をそれぞれ奪取している。この当時、彼は『ハンサム・ジミーのバラッド(''The Ballad of Handsome Jimmy'')』という歌まで録音し、自分の入場曲に使用していた。ローラーの自著によると、CWAは是が非でもメンフィスにジミーをとどめておきたくて、メンフィスに彼の自宅を購入することまで提案したという。
1980年代に入るとバリアント兄弟を解散してシングルプレイヤーに専念。1981年はNWAミッドアトランティック地区にて英国出身のロード・アルフレッド・ヘイズをマネージャーに迎え、キング・ジェームズ・バリアント(''King James Valiant'')と名乗って王族ギミックのヒールを演じ、
デューイ・ロバートソンワフー・マクダニエルリッキー・スティムボートマスクド・スーパースターなどと対戦した。
1982年よりブギウギマン(''Boogie Woogie Man'')をニックネームにコミカルなショーマン派ベビーフェイスへのギミック・チェンジを行い、南部エリア一帯で人気者となる。ミッドアトランティック地区ではイワン・コロフスーパースター・ビリー・グラハムなどWWWF時代のヒール仲間と抗争し、テネシーではジェリー・ローラーやビル・ダンディーなどかつての仇敵とタッグと組んで活躍した。一時期、チャーリー・ブラウン(''Charlie Brown'')なる覆面レスラーに変身し、1983年11月24日にグリーンズボロ・コロシアムで開催されたスターケードの第1回大会では、ザ・グレート・カブキとの王座とマスクを賭けたTV選手権試合にて勝利を収めている。
1985年1月、ジェリー・ローラーとのコンビで全日本プロレスに9年ぶりの来日を果たしたが、長州力ジャパンプロレス勢の参戦で日本人同士のハイスパート・レスリングが主流化していた当時の全日本マットでは、彼のショーマン・スタイルが受け入れられることはなく〔『ピュア・ダイナマイト - ダイナマイト・キッド自伝』P136-137(2001年、エンターブレイン、ISBN 4-7577-0639-1)〕〔『プロレスアルバム55 スーパー・タッグ Now!』P51(1985年、恒文社)〕、これが最後の来日となった。帰国後の2月21日にはメンフィスにてアイアン・マイク・シャープを破り、NWAミッドアメリカ・ヘビー級王座を獲得している。
以降、1980年代後半はNWAのミッドアトランティック地区を主戦場に、タリー・ブランチャードアーン・アンダーソンポール・ジョーンズシャスカ・ワトレーバロン・フォン・ラシクらと抗争を展開。タッグではバグジー・マグローと組んで活動したが、両者のコンビは業界誌レスリング・オブザーバーにおいて、1987年の"Worst Tag Team" に選出された。
WCWへの移行期にNWAを離れ、1990年にメンフィスのUSWAでジェリー・ローラーとの抗争を再開。USWA統一世界ヘビー級王座を2回に渡って獲得している。1993年にはカロライナ地区のインディー団体NWAにも参戦した。WWFとは1979年を最後に関係を絶っていたが、1996年にジョニーとのバリアント・ブラザーズとしてWWE殿堂に迎えられている(インダクターは当時のWWF世界タッグ王者だったブリティッシュ・ブルドッグオーエン・ハート)。以降もインディー団体への単発出場を続け、2005年に引退した。
近年はバージニア州ショーズビルに居住し、プロレスリング・スクールの "''Boogie's Wrestling Camp''" を主宰、後進の指導・育成にあたっている。また、"''The Boogie Woogie Referee''" と称し、各地のインディー団体にスペシャル・ゲスト・レフェリーとして登場することもある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジミー・バリアント」の詳細全文を読む




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