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貿易史 : ミニ英和和英辞書
貿易史[ぼうえき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

貿易 : [ぼうえき]
  1. (n,vs) trade (foreign) 
: [えき]
 【名詞】 1. divination 2. fortune-telling

貿易史 : ウィキペディア日本語版
貿易史[ぼうえき]

貿易史(ぼうえきし)は、歴史上に存在した貿易や貿易制度の歴史である。日本語の貿易は国家間の取引を指し、国際貿易という表現が用いられる場合もある。交易という語は、国内と国外の双方に用いられる。本記事では、これらの歴史について記述する。
== 概要 ==
; 起源
貿易は、その場にはない財を入手するための手段である。そのために狩猟や略奪に似た面を持っているが、貿易には2方向で財をやりとりするという性質がある。また、取り引きでは平和が保たれる必要があり、貿易には集団間の交流をもたらす効果もあった。貿易は、貨幣市場が存在しない時代から行われていた〔ポランニー (1977) p.159〕。
2つの集団が接触を避けながら交渉をする方法としては、沈黙交易がある。これは取り引きの当事者が接触や会話をせずに品物を置き、品物を気に入れば取り引きが成立するという方法をとる。財の入手において外部の集団からの影響を受けない点が重要とされ、会話が通じる集団同士でも沈黙交易は行われる。沈黙交易は最も原初的な交易とされ、ヘロドトスが記したアフリカのカルタゴリビュアや、中世のヴォルガ・ブルガールの毛皮貿易、『蝦夷志』のアイヌなど世界各地に存在した記録がある〔グリアスン (1903)〕〔瀬川 (2013)〕。また、沈黙交易は20世紀においても行われている〔鶴見 (1987) p.114〕。
行動規範が同じで隣接している集団との交易では、正直さや儀礼の正確さが求められる。しかし、面識がない集団が相手となると、それぞれの行動規範が機能しない。そのため取り引きの相手をだます行為を認めたり、推奨をする場合もあった〔サーリンズ (1974)〕。
; 管理貿易
贈り物の交換や使節の交流などの政治的、儀礼的な面がある貿易は、贈与貿易とも呼ばれる。贈与貿易は、トロブリアンド諸島で2種類の腕輪を贈るクラや、ヴァイキングサガに書かれた風習に見ることができる〔マリノフスキ (1922)〕〔角谷 (2006) 第4章〕。贈与貿易は、集団間の武力衝突を避ける交流としても選ばれた〔モース (1925) 第4章第3節〕。
遠隔地からの財の獲得は軍事的、外交的な事業でもあり、権力者によって管理貿易が行われた。国家間の管理貿易は条約が定められ、専門の交易者が参加して、用いる財の種類と交換比率が固定されていた〔ポランニー (1977) p.180〕。管理貿易では公的な財や権力者の財が取り引きされ、やがて私的な財の取り引きも平行して行われるようになった。たとえばモルッカ諸島の香料貿易では、外国商人は国王が所有するクローブから買い入れ、次に個人所有のクローブを買い入れた〔生田 (1998) p.125〕。奈良時代の日本では、貴族が優先的に大陸からの財を買い付けた〔丸山 (2010) p.266〕。中国で確立した管理貿易としては朝貢があり、周辺国のあいだでも朝貢が行われた〔濱下 (1997)〕。
管理貿易が確立されると、複数の共同体が参加する制度および場所として、交易港が定められる場合がある。交易港では政治的中立性が維持されて、専門の交易者、政府の代表、特許会社などが取り引きを行った。また、貿易品を扱う市場は、地元の品を扱う市場とは区別された。貿易の促進のために、商品に関税をかけない自由港の制度も古代より存在した〔ポランニー (1977) 補論1〕。交易港のパターンとしては、(1)共同体の境界上において一時的に開催され、定住人口はない。(2)継続的な性質を持ち、交易者の滞在や手工業者などの定住地がある。(3)貿易を目的としなくなって放棄されるか、在地の経済のために機能したり政治・行政・軍事的な目的を持つようになった場所、などがある〔角谷 (2006) p.160〕。
; 交易者
交易を行う者は、大きく2種類に分かれる。義務や公共に奉仕する身分動機の者と、利潤動機のために交易をする者がおり、以下のような類型がある〔栗本 (2013) 第3章〕。
* 身分動機の交易者には、貿易を許された商人がいた。メソポタミアのタムカルムメソアメリカポチテカ元王朝オルトクは、高い身分を保証されて権力者の貿易を行った。禅僧イエズス会修道士のように、宗教的に身分の高い者が外交や貿易を任される場合もあった〔安野 (2014)〕。
* 利潤動機の交易者は、特に古代においては、ギリシアのメトイコイのように低い身分を与えられる場合が多かった。交易民族とも呼ばれる集団が存在し、海路や水路を用いたフェニキア人ヴァイキング、乾燥地のベドウィンハウサ人ソグド人、中国からの華僑、宗教を背景に持つユダヤ人アルメニア人などがいる。
; 環境
自然環境によって貿易の開始や発展に違いが生じる。以下のような特徴を持つ。
* 灌漑農耕や牧畜に適した平原があり、金属、石材、木材を入手するための貿易が行われる。エジプトやメソポタミア南部がこれにあたる〔大津・常木・西秋 (1997) p.109〕。
* 乾燥した気候のもとで、遊牧・牧畜と農耕が行われ、対照的な生業が交易の原因となる。都市は遊牧民と商人を交易で結びつけ、遠距離交易と市場の仕組みも発達する。シルクロードが通る中央アジア、サハラ交易の西アフリカ、アラビア半島がこれにあたる〔長澤 (1993) 第2章〕。
* 海岸沿いに都市があり、海上貿易で栄える。地中海の沿岸、インドグジャラート地方やマラバール、東南アジアの多島海、メソアメリカのプトゥン人がこれにあたる。東南アジアは自給的な山地と港市のある海岸に分かれており、貿易ルートを支配した国家を港市国家とも呼ぶ〔桜井 (1999)〕。
* 河川など水路沿いに内陸での長距離交易が行われる。東ヨーロッパやロシアの河川に進出したヴァイキングやルーシがこれにあたる。
* 生態系が異なる低地と山地の間で交易が行われる。メソアメリカの高地と低地や、アンデスの海岸と山岳、雲南地方の森林と山地がこれにあたる〔上田 (2006)〕。
* 近代の産業革命の成立には、機械燃料となる石炭をはじめとする鉱物資源の調達や、人口増加の解決、製品の輸出先が重要となった。ヨーロッパはアメリカ大陸によってこの問題を解決して、人口増加と手工業の拡大を続けて産業革命がいち早く進行した〔ポメランツ (2000) p.304〕。
; 貿易ルート

* シルクロードは、アジアとヨーロッパ、北アフリカを結ぶ東西交通路であり、主なルートは草原、オアシス、海路の3つがある。草原の道は、ユーラシアのステップ地方を北緯50度付近で東西に横断するルートで、主に遊牧民が利用した。オアシスの道は、中央アジアのオアシス群を北緯40度付近で東西に横断するルートで、ソグド人、ペルシア人、ウイグル人が利用した。海上ルートは紅海またはペルシア湾から華南まで伸び、海のシルクロードとも呼ばれる。中国人、東南アジア人、ペルシア人、アラブ人、ヨーロッパ人が利用した〔長澤 (1993) p.22〕。
* インド洋は東のベンガル湾交易圏と、西のアラビア海交易圏に大きく分かれる。この海域ではアラブのダウ船が中心となった。東南アジアはジャワ海とシャム湾があり、香料諸島が属している。この海域ではマレー人のが中心となった。北東アジアからオーストラリア東南部にかけての海域は、複数の交易圏がつながっている。東シナ海交易圏と南シナ海交易圏では、中国のジャンク船が中心となった〔リード (1988) 第1章〕。
* 15世紀から17世紀にかけて、アフリカ周回でインド洋へつながるルート、大西洋を横断するルート、太平洋を横断するルートが確立した。この時代は特に大航海時代とも呼ばれる。19世紀には地中海と紅海をつなぐスエズ運河と、太平洋とカリブ海をつなぐパナマ運河が建設され、さらに貿易を増大させた。
* 大幹道と呼ばれるインドを横断するルートは、アジアで最も古くから利用されている道とされる。ヨーロッパを南北に横断する道としては、琥珀の交易に用いられたことから琥珀の道と呼ばれるルートがある。古代ローマの領土では道路網が整備されてローマ街道と呼ばれ、交易にも利用された。イスラーム以降はマッカへの公式巡礼路としてエジプト道、シリア道、イラク道、イエメン道の4街道でキャラバンが往来した。
; 交通手段
陸路では人力のほかにロバ、そして荷車が用いられた。西アジアや中央アジアが原産のラクダは乾燥地での運搬に適しており、アフリカをはじめ他の乾燥地にも広まった。運搬力に優れた家畜を得るために、馬とロバの雑種であるラバや、ヒトコブラクダフタコブラクダの雑種が作られた〔永田 (1999)〕。南アメリカのアンデスではリャマが用いられた。メソアメリカには運搬に適した大型の家畜や車輪技術が存在せず、運搬は人力で行われたため、遠距離貿易には制約となった〔青山・猪俣 (1997)〕。乾燥や降雪が激しい地域では、季節によって交易の時期が制約された。19世紀に鉄道が実用化されると、陸路の輸送量は飛躍的に増加した〔ポメランツ (2000) p.195〕。
大量の物資を運ぶには、陸路より水路が適していた。品物の種類や水域によって船が使い分けられ、たとえば地中海ではガレー船は積載量が小さいため高価軽量の商品を運び、帆船は積載量が大きいため、穀物、原料、資材などの低価格で重量のある商品を運んだ。機械を動力に用いるまでは風向きや波が重要であり、停泊は長期間に及んだ。1850年代以降は帆船にかわって石炭を燃料とする蒸気船の利用が増加して、次に石油を燃料とする内燃機関による輸送が普及した。19世紀には石油類を輸送するためのタンカーが建造されて、20世紀にはコンテナを陸路と共有して輸送を迅速にするコンテナ船が登場した〔シュライバー (1973) p.359〕。
; 情報
情報の伝達に時間がかかる時代には、交易者が移動して対面で取り引きを行った。やがて情報の入手が容易になると、交易者が定住して代理人を雇い、郵便や電信で遠隔地と連絡をとるようになる。たとえば11世紀のイスラーム世界では信用情報の照会が容易となり、代理人に取り引きを頼む形式が始まる。ムスリム商人と共に活動をしたマグリブのユダヤ商人が、代理人にあてて書いた文書がエジプトで発見され、カイロ・ゲニザと呼ばれて現存している〔湯川 (1984)〕。
貿易が増えるにつれて、手引書や商業書も増加した。1世紀の『エリュトゥラー海案内記』は紅海やインド洋の航路情報であり、中世の西アジアやヨーロッパでは商業指南書、中国ではからにかけて海上貿易の案内書があった〔田中 (1984)〕〔齋藤 (2004)〕。
重要な貿易品の入手法や製法、地図は機密情報としても扱われた。たとえば中国では絹を作るためのカイコや葉を利用するチャノキは、国外への持ち出しを禁じられていた。大航海時代の羅針儀海図は、当時は機密とされていた。16世紀にポルトガルがマラッカを占領した頃のポルトガル商館員だったの記録が、リスボンの宮廷図書館から英訳されたのは、1940年になってからであった〔鶴見 (1987) p.98〕。
; 安全保障
貿易を行う際には、人命や貿易品を守るための安全保障が重要となった。広大な領土を持つ国は、駅伝をはじめとする交通制度を整備して軍事と交易に用いた。また、世界各地で、貿易において協力関係や保護関係をもつ制度が作られた。中世のアイスランドでは、外国商人は地元の有力者であるゴジに保護されるかわりに、滞在中は現地の戦闘に参加するなどの互酬による関係をもった〔松本 (2010)〕。モンゴル帝国の制度であるオルトクも、遊牧民と商人の協力関係が原型とされる〔四日市 (2008)〕。中世の琉球王国と朝鮮の貿易では、案内役兼船乗りとして倭寇が同乗して安全を保障する制度があり、警固と呼ばれた〔上里 (2012) p.110〕。インド洋や大西洋など広い海域の貿易にヨーロッパが進出すると、ポルトガルスペインオランダイギリスは海軍で安全確保を行った。貿易の安全にかかるこうした費用は保護費用(プロテクション・レント)とも呼ばれる〔マクニール (1974) 第1章〕。
取り引きの失敗は、武力衝突につながる場合があり、『日本書紀』に記された粛慎などの記録がある〔栗本 (2013) p.107〕。貿易品が原因となった紛争として、ビーバー戦争アヘン戦争、奴隷貿易用の捕虜を目的としたアフリカの戦争などがある。略奪・交易・貢納が混じりあう例として、中世の地中海、ヴァイキング時代のバルト海や北海、中央アジアの匈奴の関係、東南アジアの多島海、ヨーロッパの私掠船の制度があげられる〔熊野 (2003) 第2章〕〔清水 (1984)〕。
; 貿易品
歴史的に有名なものとしては、シルクロードの由来にもなった中国の絹貿易、古代ギリシアの頃から地中海で行われていた穀物貿易、15世紀の陶磁器貿易、16世紀の香辛料貿易奴隷貿易、砂糖貿易、17世紀の毛皮貿易、18世紀の茶貿易、20世紀の石油貿易などがある。貴金属では、アフリカのサハラ交易が地中海にもたらされ、16世紀以降のアメリカ大陸と日本からはと金が産出された。ヨーロッパでは、アメリカからの銀によって価格革命とも呼ばれる現象が起きて商工業が促進され、19世紀にはブラジルのゴールドラッシュがイギリスの金本位制の成立にもつながる。1492年にはじまる東半球と西半球のあいだでの広範な交流は、貿易にも多大な影響を与えており、これをコロンブス交換とも呼ぶ。
サトウキビコーヒーノキ綿花タバコゴムノキアブラヤシなどを栽培するプランテーションは、大量の労働力を必要としたため、奴隷貿易を含む人口移動をもたらした。16世紀以降でアフリカからアメリカへ運ばれた奴隷は、1250万人にのぼった。貿易ルートを開拓する過程で運ばれたトウモロコシジャガイモサツマイモキャッサバは食料事情の改善にも影響して、18世紀には砂糖、コーヒー、茶の消費が急増して食習慣に大きな変化が起きた〔山本 (2000)〕。20世紀初頭までは、農産物や鉱物性生産品などの一次産品が貿易で重要だったが、工業製品が世界貿易の大半を占めるようになり、近年ではサービス貿易の比重が増加している。また、中国の急成長や2003年のイラク戦争の影響で資源価格が高騰して、特に2003年から2008年にかけてサブサハラ・アフリカの経済成長につながった。
貿易の拡大による商品や取引の増大は、投機や金融恐慌の原因にもなった。たとえば、1636年オランダのチューリップ1763年オランダの砂糖、1799年ハンブルクの砂糖やコーヒー、1825年イギリスの綿花などの輸入商品、1830年代のイギリス・アメリカ・フランスの綿花、1848年の小麦、1893年アメリカの銀・金、1907年アメリカのコーヒーなどがある〔キンドルバーガー (2000) 第3章、付録B〕。
; 貿易政策
権力者は、長距離交易の国際市場を政治的中立に保ち、安全を保障することで利益を得た。軍事力による国際市場の支配は、貿易ルートの変更を招いて経済が衰える場合もあった。
歴史的には、保護貿易から自由貿易までさまざまな政策がある。保護貿易の思想として16世紀の重商主義があり、経済学では19世紀のフリードリヒ・リストが保護貿易論を主張した。自由貿易は18世紀のアダム・スミスデヴィッド・リカードの時代から貿易政策の理想として論じられており、産業革命後のイギリス帝国、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国は自由貿易を推進した。保護貿易によるブロック経済が第二次世界大戦の一因となったことから、自由貿易のための国際機関として世界貿易機関(WTO)も設立された。現代の貿易政策は、所得の再分配、産業の振興、国際収支の改善などを目的として行われる。そのための方法として、関税、輸出補助金、輸入割当、輸出自主規制や、2国間で貿易を促進する相互主義がある〔服部 (2002)〕。
貿易政策の歴史は、政治制度と密接に関連する。たとえば19世紀の国際金本位制は、国際均衡が国内均衡に優先することも意味する。そうした制度は、普通選挙が普及しておらず国民が発言力を持たない時代に可能だったとされる〔納家 (2003) 第3章〕。また貿易政策は、圧力団体などの組織されたグループにとって有利になりやすい。たとえば輸入割当は、特定の生産者が利益を得やすいが、多数にのぼる消費者は損失をこうむるにも関わらず意見が組織されにくい。このため組織されたグループが特定の貿易政策を支持すると、社会全体の厚生が犠牲にされる場合がある。19世紀のイギリスの穀物法や、世界恐慌を悪化させた1930年のアメリカのスムート・ホーリー法などがある〔クルーグマン、オブズフェルド (2007) 第9章〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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