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モンゴル帝国 : ミニ英和和英辞書
モンゴル帝国[もんごるていこく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みかど]
 【名詞】 1. (1) emperor (of Japan) 2. mikado 3. (2) (the gates of an) imperial residence 
帝国 : [ていこく]
 【名詞】 1. empire 2. imperial 
: [くに]
 【名詞】 1. country 

モンゴル帝国 : ウィキペディア日本語版
モンゴル帝国[もんごるていこく]

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原遊牧民を統合したチンギス・カン1206年に創設した遊牧国家中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス70px ')すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。
モンゴル帝国の創始者チンギス・ハンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパアナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタンチベットミャンマー、東は中国朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。
モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・ハンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。
中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライ1271年に、緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カン末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。
モンゴル帝国の創始者チンギス・ハンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパアナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタンチベットミャンマー、東は中国朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。
モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・ハンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。
中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライ1271年に、緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カン末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。
== 歴史 ==

=== 建国 ===

モンゴル高原(モンゴリア)は9世紀ウイグル国家(回鶻可汗国)の崩壊以来、統一政権が存在しない状況にあり、契丹の住む南モンゴリア(現内モンゴル自治区)は遼朝金朝の支配下にあったが、北モンゴリアでは遊牧民が様々な部族連合を形成し、お互いに抗争していた。
このような情勢のもと12世紀末、北東モンゴリアに遊牧するモンゴル部キヤト氏(Khiyad)族集団の出でブルカン山辺りで生まれたテムジンは、同族の絆ではなく個人的な主従関係で結ばれた遊牧戦士集団を率い、高原中央部の有力集団ケレイト王国の当主オン・カンと同盟を結び、1196年に金朝に背いたタタル部をオン・カンと共同して討伐し、同族の諸氏族を討って頭角を現した。1203年、オン・カンと仲違いしたテムジンは、これを倒してケレイト王国を併合し、翌年には高原西部の強国ナイマンを滅ぼした。
テムジンのもとには、オングトなど周縁部の有力部族集団も服属するようになり、モンゴリアを統一したテムジンは、1206年初春、ココ・ナウルに近いオノン川上流の河源地において開かれたクリルタイ(大集会)において(中国語:、英語:Whole Mongol)のカン(王)に推戴され、チンギス・カンと称した。
チンギス・カンは、高原の全ての遊牧民を腹心の僚友(ノコル)や同盟部族の王たちを長とする95の「千人隊(千戸)」と呼ばれる集団に編成し、それぞれの千人隊から1000人の兵士が供出可能な軍事動員制度を整えた。さらに、高原の東部大興安嶺方面には3人の弟、ジョチ・カサルカチウン(本人は死去していたので代わりに嗣子のアルチダイに分与される)、テムゲ・オッチギンを、西部アルタイ山脈方面には3人の息子、ジョチチャガタイオゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、東西に向かって一族が広がってゆく基礎を置いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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