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ジェリー・オーツ : ミニ英和和英辞書
ジェリー・オーツ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジェリー・オーツ : ウィキペディア日本語版
ジェリー・オーツ[ちょうおん]

ジェリー・オーツJerry Oates1945年 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラージョージア州コロンバス出身。
技巧派のベビーフェイスとして、NWA南部中西部を主戦場に活動した。実弟テッド・オーツとの兄弟タッグチームオーツ・ブラザーズThe Oates Brothers)での活躍も知られる。
== 来歴 ==
1970年、義兄でもあるディック・スタインボーンのトレーニングのもとジョージア州アトランタにてデビュー。以後、ジョージアやフロリダにてスタインボーンとのタッグなどで活動〔。1972年1月、「ジェリー・オーティス」の表記で国際プロレスに初来日。外国人エース格のカーティス・イヤウケアダン・ミラーのタッグパートナーに起用され、ストロング小林サンダー杉山ラッシャー木村大剛鉄之助ら日本陣営と対戦した。
1974年より、カンザスおよびミズーリを拠点とするNWAセントラル・ステーツ地区に参戦。ロード・アルフレッド・ヘイズブルドッグ・ボブ・ブラウンと抗争し、タッグではマイク・ジョージや弟のテッド・オーツと組んで同地区認定のNWA世界タッグ王座を再三獲得。1975年には、当時ジャック・ブリスコテリー・ファンクが保持していたNWA世界ヘビー級王座にも度々挑戦している。
1976年9月、テッド・オーツと共に全日本プロレスに来日。10月2日の東京後楽園ホール大会でグレート小鹿&大熊元司極道コンビからアジア・タッグ王座を奪取したが、10月21日に福島にて高千穂明久&サムソン・クツワダに敗れ、タイトルを明け渡している。戴冠中の10月7日には、ジャイアント馬場とのシングルマッチも行われた。
その後はテッドとのコンビを一時解消して各地を転戦し、1977年8月には中南部のトライステート地区にてディック・マードックからNWA北米ヘビー級王座を奪取。1978年3月にはパシフィック・ノースウエスト地区にてジェシー・ベンチュラと組み、バディ・ローズ&エド・ウィスコスキーを破りNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を獲得。同地区ではジミー・スヌーカとも共闘し、ブル・ラモスアイアン・シークなどのヒール勢と対戦した。
1970年代末より再びテッドとのオーツ・ブラザーズで活動し、本拠地のジョージアではジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンミネソタ・レッキング・クルーと抗争。古巣のセントラル・ステーツ地区では1980年3月2日、空位となっていたセントラル・ステーツ・タッグ王座の争奪トーナメントに出場。ジ・アウトローズザ・ファンクスも参加したワンナイト・トーナメントにおいて、ボブ・スウィータン&タカチホなどのチームを破り勝ち進んだが、決勝でブルーザー・ブロディ&アーニー・ラッドに敗れて戴冠を逸した。
1981年7月、単身で国際プロレスに9年半ぶりに参戦。8月8日に北海道根室にてテリー・ギッブスをパートナーにマイティ井上&阿修羅・原IWA世界タッグ王座に挑戦したが、翌8月9日の羅臼町での興行を最後に国際プロレスは活動を停止。結果として、同王座の最後のチャレンジャーとなると同時に、国際プロレス最後のタイトルマッチに出場した外国人選手となった〔『忘れじの国際プロレス』P111(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)〕。以降、日本には翌1982年7月より、全日本プロレスに中堅外国人選手として度々来日、ハーリー・レイスタイガー・ジェット・シンとタッグを組んでメインイベントにも出場した。
その間もアメリカではジョージアを主戦場にオーツ・ブラザーズでの活動を続け、ファビュラス・フリーバーズイワン・コロフ&アレックス・スミルノフスタン・ハンセン&ケビン・サリバンなどのチームと対戦したが、1984年にテッド・オーツがヒールターンしてリップ・ロジャースハリウッド・ブロンズを結成してからは、ロニー・ガービンを新パートナーに兄弟抗争を展開。同年7月4日にはガービンとのコンビでロード・ウォリアーズを破りNWAナショナル・タッグ王座を獲得したが、9月20日にハリウッド・ブロンズに奪取されている。
1986年9月1日にはオーツ・ブラザーズを再結成してテキサス州ダラスWCWAのイベント "Labor Day Star Wars" に出場し、世界タッグ王座の争奪トーナメントに参加(2回戦でマーク・ヤングブラッド&クリス・ヤングブラッドのレネゲード・ウォリアーズに敗退)。以降はセミリタイア状態となるも、全日本プロレスには1987年から1989年にかけて定期参戦(日本マットには国際プロレスに2回、全日本プロレスに7回、通算9回来日)〔。最後の来日となった1989年の3月4日には静岡にてジョニー・スミスと組み、サムソン冬木&川田利明フットルースが保持していたアジア・タッグ王座に挑戦した。
トレーナーとしても活動し、マーティ・ジャネッティや女子プロレスラーのバンビことセリナ・メイジャーズらを指導〔。1991年1月28日にはジョージア州メイコンで収録されたWWFのTVテーピング "WWF Superstars" において、ブルックリン・ブロウラーと組んでジャネッティ&ショーン・マイケルズのザ・ロッカーズのジョバーを務めた。
2004年5月、地元のコロンバスにおいて、かつて主戦場としていたジム・バーネットのプロモーションと同じ名称のインディー団体「ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング」を旗揚げ〔。エリック・ワッツ、ブル・ブキャナンデビッド・ヤングらを主力に、アブドーラ・ザ・ブッチャーマスクド・スーパースターなどジョージア地区のレジェンドも招聘し、2006年9月まで団体運営に携わった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジェリー・オーツ」の詳細全文を読む




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