翻訳と辞書
Words near each other
・ アブド・アル・ラフマン
・ アブド・アル・ラフマン・アル・スーフィー
・ アブド・アル=カダル
・ アブド・アル=カディール
・ アブド・アル=カリーム・カーシム
・ アブド・アル=ハック2世
・ アブド・アル=ハミード・イブン・トゥルク
・ アブド・エル・クリム
・ アブド・ラッボ・マンスール・アル=ハーディー
・ アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー
アブドーラ・ザ・ブッチャー
・ アブドーラ・タンバ
・ アブドーラ・小林
・ アブドーラ小林
・ アブナイ恋の捜査室
・ アブナー・アブレイユ
・ アブナー・グライフ
・ アブナー・ダブルデイ
・ アブナー・ダルリンプル
・ アブナー・ツヴィルマン


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

アブドーラ・ザ・ブッチャー : ミニ英和和英辞書
アブドーラ・ザ・ブッチャー[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アブドーラ・ザ・ブッチャー : ウィキペディア日本語版
アブドーラ・ザ・ブッチャー[ちょうおん]

アブドーラ・ザ・ブッチャーAbdullah the Butcher)のリングネームで活躍したラリー・シュリーブLarry Shreve、本名:Lawrence Paul Shreve〔)は、カナダオンタリオ州ウィンザー出身のプロレスラー
生年月日は1941年1月11日とされるが〔『東京スポーツ』2007年3月21日付「ブッチャー年齢詐称疑惑」にて、本人がIDカードを公開。〕、1936年の生年説もある〔。ギミック上の出身地はアフリカスーダン。日本でのニックネームは「黒い呪術師」。入場テーマ曲はピンク・フロイドの『吹けよ風、呼べよ嵐』。
プロレス界を代表する悪役レスラーの一人。来日回数は140を超えており、歴代外国人レスラー最多である。親日家としても知られ、現夫人は韓国人日本人のハーフである〔『サンデー毎日』2007年5月27日号〕〔博士の悪童日記<2004年2月上旬~後編> 〕。 
== 来歴 ==
ネイティブ・アメリカンの父親アフリカ系アメリカ人の母親の間に生まれる。出生時は4ポンド(約1800グラム)にも満たない小さな新生児だった。少年時代は柔道空手を学んだ。
1961年モントリオール地区のプロモーターであったジャック・ブリットンにスカウトされデビュー。デビュー当時は「プッシーキャット・パイキンスPussycat Pikens)」、「ゼーラス・アマーラZelis Amara)」などを名乗っていたほか、現在の「アブドーラ・ザ・ブッチャーAbdullah the Butcher)」に落ち着くまで何回かリングネームを変えている。また、海外武者修行中のサンダー杉山ともしばしばタッグを組んだ。
1960年代カナダ各地を主戦場に、バンクーバーではドクター・ジェリー・グラハムと組んで1967年にクリス&ジョン・トロスからNWA世界タッグ王座(バンクーバー版)を獲得し、10月から11月にかけてはジン・キニスキーNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦。モントリオールでは1969年イワン・コロフからIWAインターナショナル・ヘビー級王座を奪取している。1970年にはスチュ・ハートの主宰するカルガリースタンピード・レスリングビル・ロビンソンと北米ヘビー級王座を争った。
1970年代前半はアメリカ五大湖地区を拠点に活動。1972年6月24日には、オハイオ州アクロンにてアーニー・ラッドを破りNWF世界ヘビー級王座を獲得。ザ・シークの牛耳るデトロイトでは、ボボ・ブラジルを相手にNWA世界タッグ王座やUSヘビー級王座を巡る抗争を展開した〔。
南半球にも遠征し、1973年11月にはオーストラリアにおいてNWA世界ヘビー級王座に挑戦。王者ジャック・ブリスコからフォールを奪うも、ラフファイトが反則とみなされ王座は剥奪、幻の戴冠となった〔。ニュージーランドでは、1974年3月12日にジョン・ダ・シルバを破り英連邦ヘビー級王座を獲得している。
1970年代半ばからは日本を主戦場としつつ、現在のホームタウンであるアメリカ南部ジョージア地区に進出、ジム・バーネットが主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングのトップ・ヒールとなり、1975年2月21日にはロッキー・ジョンソンからNWAジョージア・ヘビー級王座を、1977年2月11日にはトニー・アトラスから同TV王座をそれぞれ奪取した。
1980年代は日本遠征の合間を縫って、エディ・グラハム主宰のフロリダ地区ジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック地区など当時のNWAの主要テリトリーにも特別参戦。フロリダではダスティ・ローデスワフー・マクダニエルブラックジャック・マリガンらと遺恨試合を展開した。ミッドアトランティックでは1983年11月24日の『スターケード』、1985年7月6日の『グレート・アメリカン・バッシュ』、それぞれの第1回大会に出場している〔。
また、この時期には日本参戦と並行してプエルトリコWWCにも頻繁に遠征。同地の英雄カルロス・コロンブルーザー・ブロディらと血の抗争を繰り広げた。ブロディ最後の対戦相手はブッチャーである(1988年7月15日、ブロディ&コロンVSブッチャー&ダニー・スパイビー)。
1991年にはWCWに登場。同年10月27日の『ハロウィン・ヘイボック91』における「チェンバー・オブ・ホラー金網電気椅子デスマッチ」(スティングリック・スタイナースコット・スタイナーエル・ヒガンテ組VSベイダー、ブッチャー、カクタス・ジャックダイヤモンド・スタッド組)では敗者となり、全身に電流を流された。
以降はセミリタイア状態となるも、日本やプエルトリコを中心に、北米各地のインディー団体にも単発参戦。1994年にはニュージャージー州アトランティックシティのWWAに出場し、ジェリー・ローラーリック・マーテルと対戦した。プエルトリコでは1996年2月10日、メイブルを破りWWCユニバーサル・ヘビー級王座を獲得。同王座は2004年1月3日にもカーリー・コロンから奪取しており〔、これが最後のタイトル戴冠となっている〔。
2008年12月にプエルトリコ、2009年4月にはカナダで引退試合を行った(それぞれ地域限定での引退であり、本人は「日本では生涯現役」と語っていたが、2012年1月2日、日本においても現役引退を表明した)。
2011年3月、プロレス界における功績をたたえ、ハードコア・レスリングのレジェンドとしてWWE殿堂に迎えられた〔。インダクター(プレゼンター)は、流血の大抗争を展開した因縁のライバル、テリー・ファンクが務めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アブドーラ・ザ・ブッチャー」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.