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関東管領 : ミニ英和和英辞書
関東管領[かんとうかんれい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せき, ぜき]
 (suf) honorific added to names of makuuchi and juryo division sumo wrestlers
関東 : [かんとう]
 (n) Kantou (eastern half of Japan, including Tokyo)
: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
管領 : [かんれい, かんりょう]
 (n,vs) (person in) control

関東管領 : ウィキペディア日本語版
関東管領[かんとうかんれい]
関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置した役職名である。当初は関東執事(かんとうしつじ)と呼ばれていた。鎌倉公方の下部組織でありながら、任命権等は将軍にあった。
== 概要 ==

鎌倉府は観応の擾乱の直前の正平4年/貞和5年(1349年)室町幕府初代将軍足利尊氏が嫡男の義詮を鎌倉から京都へ呼び戻し、代わりに次男の亀若丸(基氏)を関東統治のために派遣したのがはじまりで、幼い基氏を補佐するために執事と呼ばれる補佐を置いた。京都にも将軍を補佐する執事(後の管領)が存在したため、これと区別するために「関東執事」と呼ばれた。当初は2人指導体制で、上杉憲顕斯波家長、次いで高師冬畠山国清らが任じられる。関東執事は初期においては斯波氏畠山氏が就任していたが次第に上杉氏に独占されていき、最終的には上杉氏が世襲していくことになる。また、上杉氏は上野伊豆の守護も担っていた。
直義方であった憲顕は失脚して越後で引退するが、正平17年/貞治元年(1362年)に基氏が願って復職した後、もしくは正平22年/貞治6年(1367年)に足利基氏が急死して、幼少の足利氏満が鎌倉公方を継いで憲顕が後見についた後、関東管領と呼ばれるようになる〔関東管領の呼称は憲顕の復帰後から見られるものの、後世に知られる関東管領の役職が成立したのは従来鎌倉公方が行っていた所務遵行命令権が基氏の死をきっかけに憲顕に移されて以後関東管領の職権とされた時とする見方がある。また、応安元年4月10日に春屋妙葩二階堂行春に充てた書状(『南北朝遺文 関東編』3465号)では、上杉憲顕を「管領」、細川頼之を「執事」と呼称していることから、関東管領が室町幕府中央の管領よりも先に成立していた可能性が高い。(亀田俊和『室町幕府管領施行システムの研究』思文閣出版、2013年 ISBN 978-4-7842-1675-8 P291-298)〕。
憲顕は当初北関東を管理していたが、基氏の急死後の正平23年/応安元年(1368年)に武蔵平一揆の乱を鎮圧し、南関東の鎌倉公方の直轄領をも管理下に収めた。応永6年(1399年)に3代将軍足利義満に挑発されて大内義弘が挙兵した応永の乱では、上杉憲定は義弘に呼応して挙兵しようとした3代鎌倉公方足利満兼を諫言した。以後は山内上杉家犬懸上杉家が独占し、応永23年(1416年)に元関東管領上杉禅秀が反乱を起こし(上杉禅秀の乱)、敗れて犬懸上杉家が滅亡すると山内上杉家の世襲となる。
関東管領は主に支配地域の守護及び地頭の管理に当たっていた。武蔵守護も兼任し、関東一円の武士を掌握し次第に鎌倉府以上の力を持つようになり、鎌倉公方と対立していくことになる。
永享10年(1438年)に第4代鎌倉公方足利持氏が6代将軍足利義教と対立すると、関東管領上杉憲実は持氏を諌めるが、自身が暗殺される風説が流れると、管領職を辞して上野に逃れ、憲実追討のために持氏が兵を起すと武蔵府中に陣を構え、幕府と連合して持氏を自害させ鎌倉府を滅亡させるまでに至る(永享の乱)。永享12年(1440年)に下総結城氏などが持氏の遺児を奉じて結城合戦と呼ばれる反乱を起こすと、鎮定に協力するために復職する。その後憲実は遁世、文安4年(1447年)の鎌倉府再興まで東国支配を上杉氏が受け持つことになる。
再興後も鎌倉府と関東管領の対立は続き、持氏の遺児成氏が鎌倉公方となると、享徳3年(1454年)に成氏は関東管領上杉憲忠を暗殺する。上杉氏と戦っている最中に幕府から派遣された駿河守護今川範忠に鎌倉府を追われると、成氏は古河を座所とする(享徳の乱)。古河公方と名乗った成氏と関東管領上杉顕定の間で和解が成立するのは28年後の事であった。
なお、この乱の最中に足利政知が新たに堀越公方として関東に下るが、この際に政知の補佐役として上杉教朝渋川義鏡が任命され、関東管領と区別するためにその旧称である「関東執事」が一時的に復活している。
だが、この間に庶流の扇谷上杉家が山内上杉家に迫る勢力を得た事から、長享元年(1487年)に顕定が扇谷上杉家討伐を開始する(長享の乱)。18年続いたこの戦いは顕定の勝利に終わったが、通算して50年にわたった戦乱で関東はすっかり荒廃した上に、扇谷上杉家が堀越公方を攻め滅ぼした伊勢宗瑞(北条早雲)を関東に招き入れたことによって後北条氏の台頭のきっかけを作ってしまう。
16世紀に入って後北条氏は関東中心部へと勢力を拡大していくが、山内上杉家は2度にわたる家督争いによって自ら勢力を後退させていき、天文15年(1546年)の河越夜戦において古河公方足利晴氏、関東管領上杉憲政、扇谷上杉家当主上杉朝定の連合軍が北条氏康に敗北すると、古河公方、山内上杉家は大打撃を受け、扇谷上杉家は朝定が討死して滅亡してしまう。
その後、憲政は上野で北条氏へ抵抗するがうまくいかず、天文21年(1552年)に居城の平井城を失うと越後へ向かい、元は家臣筋であり外戚でもあった越後長尾氏を頼った。永禄4年(1561年)に憲政は山内上杉家の家督と関東管領の職を越後三条長尾家の長尾景虎(後の上杉謙信)に譲った。景虎はこの時名を政虎(後に輝虎・法名は謙信)と改める。
しかし、既に関東管領は実質的には機能しておらず、謙信の死をもって終焉を迎える。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「関東管領」の詳細全文を読む




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