翻訳と辞書
Words near each other
・ 棚下不動の滝
・ 棚下不動滝
・ 棚下照生
・ 棚仕立て
・ 棚倉バイパス
・ 棚倉城
・ 棚倉富岡中継局
・ 棚倉町
・ 棚倉町文化センター倉美館
・ 棚倉県
棚倉藩
・ 棚倉警察署
・ 棚倉駅
・ 棚倉高校
・ 棚倉高等学校
・ 棚卸
・ 棚卸し
・ 棚卸資産
・ 棚原クラブ
・ 棚原勝也


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

棚倉藩 : ミニ英和和英辞書
棚倉藩[たなぐらはん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たな]
 【名詞】 1. shelves 2. shelf 3. rack 
: [そう]
 【名詞】 1. warehouse 2. cellar 3. magazine 4. granary 5. godown 6. depository 7. treasury 8. elevator
: [はん]
  1. (n,n-suf) fiefdom 2. domain (precursor to current prefectures) 

棚倉藩 : ウィキペディア日本語版
棚倉藩[たなぐらはん]
棚倉藩(たなぐらはん)は、陸奥国磐城国白河郡菊多郡磐前郡磐城郡などを支配した。藩庁は白河郡棚倉城に置かれた(現在の福島県東白川郡棚倉町)。
== 藩史 ==

* 1590年天正18年)以降、棚倉を支配していた石川昭光が、常陸佐竹氏の支配下にあった。拠点は、標高345mに山城(やまじろ)の赤館。
* 1600年慶長5年) 関ヶ原の戦い石田三成と懇意だった佐竹義宣は西軍につくも東西中立の態度を示したため、戦後に出羽国秋田藩へ減移封の後は棚倉一帯は天領となる。
* 1603年(慶長8年) 立花宗茂が棚倉に1万石で入部、棚倉藩が立藩した。
*:宗茂は関ヶ原で西軍に与して大津城攻撃などで活躍したが、9月15日の関ヶ原本戦に間に合わず、大坂城に撤退、徳川家康との徹底抗戦を主張したが、西軍総大将の毛利輝元に聞き入られず、本国である筑後国柳河に戻ってなおも抵抗姿勢を示したが、東軍の黒田孝高(如水)、加藤清正鍋島直茂に攻められ降伏したあとは所領を没収、浪人の身となっていた。宗茂はその人となりから、その武勇が本多忠勝に劣らぬと言われたほどの武将で、浪人となったあと清正や前田利長をはじめ、多くの大名からその存在を惜しまれて仕官に誘われている。家康もそのうちの一人で、宗茂を再び大名として取り立てたといわれる。宗茂は江戸で将軍に近侍したため、家臣の由布惟信が代わって藩内の行政を担当した。
* 1604年(慶長10年)宗茂、1万石から2万5500石に加増。
* 1610年(慶長15年)宗茂、2万5500石から3万5000石に加増。
* 1614年1615年(慶長19-20年)宗茂、大坂の陣に従軍。
* 1620年元和6年) 宗茂は旧領の筑後柳河藩へ国替えとなる。
* 1622年(元和8年) 丹羽長重常陸古渡藩から5万石で入部。
* 1625年寛永2年) 長重は、平地をえらび棚倉城の築城を開始。上方から商人を招き入れ、城下町の建設に尽力。また、海からによる輸送業などに力を注いで藩財政の基盤を敷く。
* 1627年(寛永4年) 平城の棚倉城が完成。長重の移封(陸奥国白河藩へ加増移封)と同じ年である。長重の後には、譜代大名である内藤信照が5万石で入り、藩領の検地をおこない支配体制を固めた。その後を継いだ内藤信良も検地をおこなった。また、弟の内藤信全に常陸多賀郡の内で5000石を分与。内藤弌信の頃から、藩財政は窮乏化が始まる。弌信は松波勘十郎を登用して藩政改革を目指したが、あまりに領民から搾りあげる改革を行なったため、領民から松波の解任を求める声があがり、改革は挫折。
* 1705年宝永2年)内藤弌信 駿河国田中藩へ移封。太田資晴が5万石で入る。資晴は若年寄にまで栄進。
* 1728年享保13年) 太田資晴上野国館林藩へ移封。代わって松平武元が5万石で入る。
* 1746年延享3年)小笠原長恭 遠江国掛川藩から6万石で入る。
* 1817年文化14年) 第3代藩主小笠原長昌肥前国唐津藩へ移封となる。
* 1836年天保7年)井上正甫 遠江国浜松藩から5万石で入るが、その子・井上正春の代に館林へ移封。その後松平康爵石見国浜田藩から6万石で入る。松平氏は康爵の後、松平康圭松平康泰松平康英と続き、康英が老中に昇進して2万石加増。
* 1866年慶応2年)阿部正静 陸奥白河藩より10万石で入る。
戊辰戦争では、正静が藩兵を率い奥羽越列藩同盟に参加、白河口において新政府軍と対峙。
* 1868年(慶応4年)6月24日 棚倉城落城、正静は降伏した。維新後は4万石減封。
* 1871年明治4年)阿部正功の代のときの廃藩置県により廃藩となる。城趾には現在、公園と町の公民館がある。水堀のまわりには桜の木が立ち並び、毎年春には町民の花見場所となっている。
棚倉藩はしばしば、中級、下級の譜代大名の懲罰的な目的での転封の対象地になり、また藩主家の長期の定着がなく、藩の支配体制は不完全なまま経てきた。石高は、表高より内高(実際に藩の収入になる石高)が少ない藩であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「棚倉藩」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.