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石川昭光 : ミニ英和和英辞書
石川昭光[いしかわ あきみつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こく, いし]
 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [ひかり]
 【名詞】 1. light 

石川昭光 : ウィキペディア日本語版
石川昭光[いしかわ あきみつ]

石川 昭光(いしかわ あきみつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将陸奥仙台藩重臣。角田石川氏初代当主。
== 生涯 ==
天文19年(1550年)、伊達晴宗の四男として羽州長井荘(現在の山形県米沢市)において誕生。幼名は小二郎。小字藤四郎。
永禄6年(1563年)10月、陸奥国石川郡三芦城主・石川晴光の養嗣子となる。晴光の娘・照子を娶り、小二郎親宗(ちかむね、「宗」は実家・伊達氏通字により)と改称する。この時、伊達氏より佐藤信景以下6名が随従し石川氏家臣となる。永禄11年(1568年)3月、養父・晴光の隠居に伴い家跡を相続し、第25代石川家当主となる。永禄13年(1570年)2月、上洛し室町幕府15代将軍足利義昭に拝謁する。このとき、従五位下佐衛門太夫に任ぜられ、偏諱を賜い昭光と改称する。元亀元年(1570年)、大和に任ぜられる。
天正2年(1574年)、蘆名盛氏佐竹義重白川郡石川郡の覇権、支配権をめぐって戦う。蘆名氏の支援を受けていた白河氏が佐竹氏に大敗し〔秋田藩採集文書『白河市史』〕同地を失うと、同年6月、石川晴光・昭光の三芦城への帰城が佐竹義重への服属によって実現、決定された〔秋田藩家蔵文書『石川町史』〕。『伊達治家記録』によれば、この年10月、実兄・伊達輝宗から昭光の帰城の御祝儀として、馬一匹、奥方には染物を贈呈される。閏11月には、輝宗が昭光を含む関係諸家の調停に奔走して蘆名氏・白川氏と佐竹氏の講和が実現した〔白河古事考所収文書『福島県史』、松藩捜古所収文書『福島県史』、伊達文書『福島県史』〕。
しかし、田村清顕は同天正2年1月(1573年12月)、須賀川勢(二階堂氏)の手切れを受けて〔『伊達輝宗日記』正月二十日条「会津より、田村より、須賀川むかって廿七日に手切候とて脚力参候」と記される。「脚力」は飛脚の意。(伊達文書『福島県史』)〕 二階堂領を攻め、さらに勢いに乗って蘆名・白川領まで攻め入っており、9月には父・隆顕〔伊達植宗の娘婿にあたる。天正2年(1574年)9月6日没す〕 が死去。また正室が輝宗と争っていた相馬盛胤の妹ということもあって、輝宗の調停に応ずることはなかった。天正3年9月、蘆名氏は安積郡西部の大槻(郡山市大槻町)を田村勢に攻められ、10月には蘆名勢が北部の久保田(郡山市富久山町)を攻め返した。輝宗は石川氏と連携して田村氏・相馬氏の牽制を図るが、石川氏は蘆名氏を最たる脅威として佐竹氏に従った〔秋田藩家蔵文書5『石川町史3』335・浅川家文書同334〕。石川氏がこのような態度をとった背景には昭光の養父・晴光が健在であり、その母が田村氏の出であった事も要因の一つと考えられる。天正4年(1576年)、田村清顕は佐竹氏と共に蘆名方の長沼城を攻めている〔奥州文書『福島県史』〕。
天正12年(1584年)、実家の伊達氏の当主が甥・伊達政宗へ代替わりし、蘆名氏・佐竹氏との対立姿勢を強めるようになると、昭光は伊達氏と敵対するようになった。天正13年(1585年)の人取橋の戦いでは、他の南奥諸大名と共に義兄・佐竹義重についた。しかし、天正17年(1589年)の摺上原の戦いで伊達氏が蘆名氏を下し、須賀川の二階堂氏をも下すと、石川昭光と白川義親はついに降参し伊達氏の軍門に属した。翌年には昭光に関東方面対応として須賀川城を与えられる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐に、昭光は白川義親らと共に、刀剣・駿馬などをもって政宗に託し、太閤に献じて謝してもらうよう懇願したが、秀吉に参陣しないことを咎められ奥州仕置にて、三兄・留守政景、白川義親らと共に改易され、領地没収となった。この年の8月に、昭光と嫡男・義宗とその家臣は失意のもとに戦を避け城を退出したが、老臣の溝井六郎は豊臣軍との決戦を主張し、三芦城中に火を放ち自決したという。
天正19年(1591年)、伊達政宗が岩出山に転封されると、昭光は政宗に謁し、志田郡松山城6,000石を賜わり、松山城に移住した。以後は伊達氏に属し、御一門筆頭の家格を与えられる。
翌年文禄元年(1592年)正月、秀吉より朝鮮出兵の命が伊達氏に下され、昭光も政宗に従う。文禄2年(1593年)には文禄の役に出陣し、文禄4年(1595年)に帰国。文禄4年(1595年)7月、関白豊臣秀次謀反事件に関連し、政宗に疑いがかけられ、政宗とその家臣の妻子召し連れ、昭光の嫡男・義宗もまた京都伏見に上る。そして、8月、伊達家重臣19人の連判誓詞文を提出。義宗はこのとき御一門筆頭として最初に署名がなされている。慶長3年(1598年)10月、2,000石を加増され、伊具郡角田城を賜わる。また、義宗の文禄4年の上洛の功を以って2,000石を賜り、併せて1万石へと加増され、角田城に移住する(角田城は伊達成実の居城であったが、上洛の後、出奔し、城を収められ、知行主不在の状態であった)。慶長5年(1600年)7月、刈田郡白石の役に昭光と義宗が兵を率い参陣する。10月には福島表の戦いにも参陣する。
慶長8年(1603年)、義宗に家督を譲って、村田に3,000石を賜い隠居する。しかし、義宗が慶長15年(1610年)11月に病死し(享年34)、嫡孫・宗敬はまだ幼少(4歳)だったため、政宗の命により後見人として角田城に戻り政務を執ることになる。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に昭光は兵を率いて参陣した。続いて、翌年の慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の際は、昭光は病身であったため、家臣の泉光理を名代として兵を率い、伊達軍に参陣させた。元和7年(1621年)、村田にて賜った3,000石の知行のうち、2,000石を加増され、合高1万2,000石を嫡孫の宗敬に引き継ぐ。
元和8年(1622年)7月10日、角田城にて死去。享年73。殉死者7名。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「石川昭光」の詳細全文を読む




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