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足利義昭 : ミニ英和和英辞書
足利義昭[あしかが よしあき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あし]
 【名詞】 1. foot 2. pace 3. gait 4. leg 
: [り]
 【名詞】 1. advantage 2. benefit 3. profit 4. interest 
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 

足利義昭 : ウィキペディア日本語版
足利義昭[あしかが よしあき]

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍〔国史大辞典(吉川弘文館)〕。(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。
父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。
足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが松永久秀らに暗殺されると、三淵藤英細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。
信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。
== 生涯 ==

=== 将軍への道 ===

天文6年(1537年)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。幼名は千歳丸。兄に嗣子である義輝がいた。跡目争いを避けるため、あるいは寺社との結びつきを強めるために嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従って天文11年(1542年)11月20日、外祖父・近衛尚通猶子となって仏門(興福寺一乗院門跡)に入室し(『親俊日記』『南行雑録』)、法名覚慶と名乗った。のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。このまま覚慶は高僧として生涯を終えるはずであった。
永禄8年(1565年)5月の永禄の変で、第13代将軍であった兄・義輝と母・慶寿院、弟で鹿苑院院主であった周暠松永久通三好三人衆らによって暗殺された。このとき、覚慶も松永久通らによって捕縛され、興福寺に幽閉・監視された。
しかし、義輝の側近であった一色藤長和田惟政仁木義政畠山尚誠米田求政三淵藤英細川藤孝および大覚寺門跡・義俊近衛尚通の子)らに助けられて7月28日に脱出し、奈良から木津川をさかのぼり伊賀国へ脱出した覚慶とその一行は、さらに近江国六角義賢の許可を得た上で甲賀郡の和田城(伊賀 - 近江の国境近くにあった和田惟政の居城)にひとまず身を置き、ここで覚慶は足利将軍家の当主になる事を宣言した。11月21日には和田惟政と仁木義政の斡旋により六角義賢・義治親子の許可を得た上で、甲賀郡から都にほど近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に進出し、在所とした(矢島御所)。この際に上杉輝虎(謙信)らに室町幕府の再興を依頼している。また輝虎と武田信玄北条氏政の3名に対して和睦を命じたりしている〔『足利義昭』〈人物叢書〉〕。
永禄9年(1566年)2月17日、正統な血筋による将軍家を再興するため、覚慶は矢島御所において還俗足利義秋と名乗った。当時の義昭のことを記した書物には、将軍家当主をさす矢島の武家御所などと呼ばれていたことが記されている。4月21日には従五位下左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官〔。
矢島御所において義秋は、三管領家の一つである河内国畠山高政関東管領の上杉輝虎、能登守護の畠山義綱(近江滋賀郡在国)らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。特に高政は義秋を積極的に支持していたとみえ、実弟の畠山昭高を、この頃に義秋に従えさせた。六角義賢は当初は上洛に積極的で、和田惟政に命じて浅井長政織田信長の妹・お市の婚姻の実現を働きかけている〔。義秋や六角・和田の構想は敵対していた六角氏・浅井氏・斎藤氏・織田氏、更には武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、彼らの協力で上洛を目指すものであったと考えられている。実際に和田惟政と細川藤孝の説得で信長と斎藤龍興は和解に応じ、信長は美濃から六角氏の勢力圏である北伊勢・南近江を経由して上洛することになった〔村井祐樹「幻の信長上洛作戦」『古文書研究』第78号(2014年)〕〔久野雅司「足利義昭政権の研究」(所収:久野雅司 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第二巻 足利義昭』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-162-2)〕。
この義秋の行動に対して、三好三人衆三好長逸の軍勢3,000騎が突然矢島御所を襲撃してきたが、この時は大草氏などの奉公衆(親衛隊)の奮戦により、からくも撃退することが出来た。
しかし、永禄9年(1566年)8月、先の約束通り上洛の兵を起こした信長の軍は斎藤龍興の襲撃にあって尾張国に撤退〔〔し、さらに矢島御所のある南近江の領主である六角義賢・義治父子が三好三人衆と密かに内通したという情報を掴んだため、妹婿である武田義統を頼り、若狭国へ下った〔。斎藤龍興と六角義賢の離反がほぼ同時に起きているのは三好方による巻き返しの調略があったとみられている〔。しかし、京都北白川に出城も構え、応仁の乱では東軍の副将を務め隆盛を極めた若狭武田氏も、義統自身が息子との家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった〔(武田義統は出兵の代わりに実弟の武田信景を義秋に従えさせた)。
9月には若狭から越前国朝倉義景(仁木義政の親族であるという)のもとへ移り、上洛への助力を要請した。義秋は朝廷に義景の母を従二位にすることを上奏して、実現したりしている。朝倉義景は細川藤孝らによる覚慶(義昭)の奈良脱出の黒幕であったととする見方がある〔渡辺世祐「上洛前の足利義昭と織田信長」(初出:『史学雑誌』29巻2号、1918年/所収:久野雅司 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第二巻 足利義昭』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-162-2)〕一方で、すでに足利将軍家連枝の「鞍谷御所」・足利嗣知足利義嗣の子孫)も抱えており、仏門から還俗した義秋を奉じての積極的な上洛をする意思を表さなかったため、滞在は長期間となった。この頃、義秋のもとには上野清延大館晴忠などのかつての幕府重臣や諏方晴長飯尾昭連松田頼隆などの奉行衆が帰参する。
なお、義昭は朝倉氏よりも上杉輝虎を頼りにしていたという。しかし輝虎は武田信玄との対立と、その信玄の調略を受けた揚北衆本庄繁長の反乱、越中の騒乱などから上洛・出兵などは不可能であった〔。血筋や幕府の実務を行う奉行衆の掌握といった点で次期将軍候補としては対抗馬である従兄弟の足利義栄よりも有利な環境にありながらいつまでも上洛できない義昭に対し、京都の実質的支配者であった三好三人衆が擁する義栄は、義輝によって取り潰された伊勢氏(元政所執事)の再興を約束するなど朝廷や京都に残る幕臣への説得工作を続け、その結果、永禄11年(1568年)2月8日に義栄は摂津国滞在のまま将軍宣下を受けた〔。
永禄11年(1568年)4月15日、義秋は「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白の二条晴良を越前に招き、ようやく元服式を行って義昭と改名した。
加冠役は朝倉義景が務めている。
やがて、朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介により、三管領斯波氏の有力家臣であった織田信長を頼って尾張国へ移る。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「足利義昭」の詳細全文を読む




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