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本能寺の変 : ミニ英和和英辞書
本能寺の変[ほんのうじのへん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
本能 : [ほんのう]
 【名詞】 1. instinct 
: [よく, のう]
  1. (adv,n,vs) being skilled in 2. nicely 3. properly 4. well 5. skillfully 6. thoroughly
: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [へん]
  1. (adj-na,n) change 2. incident 3. disturbance 4. strange 5. flat (music) 6. odd 7. peculiar 8. suspicious-looking 9. queer 10. eccentric 1 1. funny 1

本能寺の変 : ウィキペディア日本語版
本能寺の変[ほんのうじのへん]

本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日1582年6月21日)、明智光秀謀反を起こして京都本能寺に宿泊していた主君織田信長を襲撃した事件である〔。。。。〕。
信長は寝込みを襲われ包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた〔。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり自害した〔。。。〕。2人の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に殺害または自害した。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。
光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」〔などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照)
== 背景 ==
天正10年(1582年)3月11日武田勝頼信勝親子を天目山に追い詰めて自害〔武田氏の惣領信勝の死後、穴山信君の嫡男勝千代が家督を継ぎ、穴山氏は信長によって本領安堵された。さらに勝千代の早世後も、徳川家康の5男信吉が養子に入って継いだので、武田氏は滅亡しておらず続いている。〕させた織田信長は、3月27日、2日に名城・高遠城を攻略した信忠に、褒美と共に「天下支配の権も譲ろう」〔原文は「天下の儀も御与奪なさるべき旨、仰せらる」(信長公記)〕との言葉も贈って褒め称えた。信長は甲府より返礼に来た信忠を諏訪に残して軍勢を現地解散すると、僅かな供廻りだけをつれて甲斐から東海道に至る道を富士山麓を眺めながら悠々と帰国の途に就いた。4月3日には新府城の焼け跡を見物。かつての敵、信玄の居館・躑躅ヶ崎館跡の上に建てられた仮御殿にしばらく滞在し、4月10日に甲府を出立した。長年の宿敵を倒し、立派な後継者の目途もついて、信長にとって大変満足な凱旋となった。
天下を展望すると、東北においては伊達氏最上氏蘆名氏といった主な大名が信長に恭順する姿勢を見せており、関東では後北条氏がすでに天正8年(1580年)には同盟の傘下に入っていて、佐竹氏とも以前より外交関係があったので、東国で表だって信長に逆らうのは北陸上杉氏を残すのみとなった〔。北条氏政氏直親子は甲州に共同で出陣する約束をしていたが、戸倉城 を攻略した後は何ら貢献できなかったので、3月21日に酒・白鳥徳利を、26日には諏訪に米俵千俵を献じ、4月2日には雉500羽、4日には馬13頭と鷹3羽と、短期間で立て続けに献上品を送って誼を厚くしようとした。しかしこの時の馬と鷹はどれも信長が気に入らずに返却されている〔。他方で、信長は長年の同盟者である徳川家康には駿河1国を贈ったが、家康は領国を通過する信長一行を万全の配慮で接待し、下士に至るまで手厚くもてなしたので、信長を大いに感心させた。これら信長の同盟者はもはや次の標的とされるよりもその威に服して従属するという姿勢を鮮明にしていた。
西に目を転じると、中国地方では毛利氏との争いが続き〔、四国でも長宗我部氏が信長の指図を拒否したことから交戦状態に入った(詳細は後述)が、九州においては大友氏と信長は友好関係にあり、島津氏とも外交が持たれていて、前年6月には准三宮近衛前久〔反足利義昭の元関白左大臣。島津氏との外交のために2度も薩摩に赴いている。天正10年2月に太政大臣となった。〕を仲介者として両氏を和睦させたことで、島津義久より貢物を受けている〔龍造寺氏との信長の外交状態についてはよくわかっていない。ただしこの頃、龍造寺氏と毛利氏は同盟関係にあった。〕。信長は天正9年(1581年)8月13日、「信長自ら出陣し、東西の軍勢がぶつかって合戦を遂げ、西国勢をことごとく討ち果たし、日本全国残るところなく信長の支配下に置く決意である」と、その意向を繰り返し表明していたが、上月城での攻防の際は重臣が反対し、鳥取城攻めの際には出陣の機会がなかった。その間に伊賀平定を終えて(高野山を除く)京都を中心とした畿内全域を完全に掌握したことから、次こそ第3次信長包囲網〔信長包囲網は、京を追われた将軍足利義昭の主導するものであり、三職推任問題などでも将軍が依然として存在する事実は障害となっており、義昭を匿う毛利氏を打倒することは信長が名実共に天下平定を宣言するために必要不可欠となっていた。〕を打倒し、西国最大の大名である毛利氏を討つという意気込みを持っていた〔。
他方で信長は、天正6年(1578年)4月9日に右大臣右近衛大将の官位を辞して以来、無官・散位のままであった。正親町天皇とは誠仁親王への譲位を巡って意見を異にし、天正9年3月に信長は譲位を条件として左大臣の受諾を一旦は了承したが、天皇が金神を理由に譲位を中止したことで、信長の任官の話もそのまま宙に浮いていたからである。そこで朝廷は、甲州征伐の戦勝を機に祝賀の勅使として勧修寺晴豊(誠仁親王の義兄)を下し、晴豊は信長が凱旋した2日後の天正10年4月23日に安土に到着した。『晴豊公記』によれば、4月25日に信長を太政大臣関白征夷大将軍かに推挙するという所謂「三職推任」を打診し、5月4日には誠仁親王の親書を添えた2度目の勅使が訪問したと云う。2度の勅使に困惑した信長が、森成利(蘭丸)を晴豊のもとに遣わせて朝廷の意向を伺わせると、「信長を将軍に推任したいという勅使だ」と晴豊は答えた。しかし信長は、6日、7日と勅使を饗応したが、この件について返答をしなかった。そのうちに、5月17日備中より待ちわびていた羽柴秀吉からの出馬要請が届いた。これを受けて信長は出陣を決意し、三職推任の問題はうやむやのまま、本能寺で受難することになった。(続き

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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