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明智光秀 : ミニ英和和英辞書
明智光秀[あけちみつひで]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひかり]
 【名詞】 1. light 

明智光秀 : ウィキペディア日本語版
明智光秀[あけちみつひで]

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将
戦国大名織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして信長を暗殺。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉山崎の戦いで敗れた。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも〔致命傷を受けて自害したもとされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」とも言う。
本姓源氏で、家系清和源氏摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。のちに朝廷より惟任の姓を賜ったため惟任光秀とも言う。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。
領地では善政を行ったとされ、忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社 (福知山市))もある。後世、江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、小説・映画・テレビドラマなどでもその人物がとりあげられている。
== 生涯 ==

=== 織田家仕官以前 ===
清和源氏土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は江戸時代の諸系図等で明智光綱、明智光國、明智光隆、明智頼明に分かれるが、父親の名前も伝わらない低い身分の土岐支流とも言われる。土岐氏建武の新政から美濃国で200年余り守護を務め数十家の支族を輩出した。生年は『明智軍記』『細川家文書』からは享禄元年(1528年)とされる。場所は岐阜県可児市明智の明智城が有力とされる。
青年期の履歴は不明な点が多い。光秀は美濃の守護・土岐氏の一族
で、土岐氏にかわって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍父子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされる。その後、越前国朝倉義景を頼り10年間仕えた。
永禄8年(1565年)に室町幕府13代将軍・足利義輝三好三人衆松永久秀によって暗殺されると、その弟・義昭が姉婿である若狭国守護・武田義統のもとに逃れた。その直後から義昭は織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促し、細川藤孝が使者に立ち信長は了承したが美濃平定前であり、義昭側は永禄9年(1566年)4月に織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたが、信長がこれを破る形で8月29日に出兵したことで流れた。義昭が信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。しかし義昭が上洛を期待しても義景は動かず、そこで義昭は永禄11年(1568年)6月23日(『細川家記』)再度斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請した。
光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている。また、従兄妹でなくても何らかの血縁があったと推定される。
小和田哲男は、将軍・義輝の近臣の名を記録した『永禄六年諸役人附』(『群書類従』収載)に見える足軽衆「明智」を光秀と解し、朝倉義景に仕えるまでの間、足軽大将として義輝に仕えていたとする〔。しかし『永禄六年諸役人附』は、記載された人名から前半の義輝期と後半の足利義昭の将軍任官前の二部に分かれ、「明智」の記載があるのは後半部であり、義昭時代から足軽衆として仕え高位ではなかったとも言われる〔。
なお、この足軽衆とは雑兵ではなく、行列などの際に徒歩で従う侍のことである。これは末尾に名字だけで記載され、当時の義昭にとって光秀は取るに足りない存在だとうかがわせる。室町幕府では、土岐氏は三管領四識家に次ぎ諸家筆頭の高い家格で、十余支族も幕府奉公衆となり土岐明智氏などは将軍家と結んで独自の地位を築いた。その奉公衆や外様衆などの高位に就いてきた「土岐明智氏」の家系に連なる者を、形式的な伝統を重んじ家格に配慮する義昭が、足軽衆に格下げして臣従させたことになり「土岐明智氏」なのか疑問がもたれている〔。
本能寺の変後に、ルイス・フロイスの『日本史』や英俊の『多聞院日記』には、光秀は元は細川藤孝に仕える足軽中間であったと記すが、これは両者の地位に大きな差があるなか共に信長との交渉に動いたので、当時には何らかの上下関係があったと見てよい〔。信長への仕官の初祿は『細川家記』では500貫文で朝倉家と同額としており、これは雑兵ら約百人を率いて馬に乗り10騎位で闘う騎馬(うまのり)の身分であり〔、通説となってきた。しかし、太田牛一の『太田牛一旧記』では、朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて」と、特色の無い部下のいない従者1人だけの家臣だと記述している〔『『信長記』と信長・秀吉の時代』金子拓 P.214 収載『太田牛一旧記』P.310-312 勉誠出版 2012年〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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