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最上氏 : ミニ英和和英辞書
最上氏[もがみし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さい]
  1. (n,pref) the most 2. the extreme
最上 : [もがみ]
 (adj-na,n) best
: [じょう]
 (n,pref,suf) 1. first volume 2. superior quality 3. governmental 4. imperial 5. top 6. best 7. high class 8. going up 9. presenting 10. showing 1 1. aboard a ship or vehicle 12. from the standpoint of 13. as a matter of (fact) 13. superior
: [うじ]
 【名詞】 1. family name 2. lineage 3. birth 

最上氏 : ウィキペディア日本語版
最上氏[もがみし]

最上氏(もがみし)は、清和源氏足利氏の支流である。三管領の一つ斯波氏の分家にあたる。室町幕府羽州探題を世襲できる家柄で、のち出羽国戦国大名として成長した。斯波最上氏とも斯波出羽家とも呼ばれることがある。
== 概要 ==
最上氏の起源である斯波氏は、本来足利宗家となるはずだったものの北条氏の介入によって廃嫡され分家した足利家氏を祖とする。南北朝時代延文期(1356年 - 1360年)に斯波氏傍流の奥州管領斯波家兼の子、斯波兼頼が出羽国按察使として山形に入部し、山形城を築城し本拠とする。そして、室町幕府より屋形号を許されて最上屋形と称したことを機に最上氏を称することとなった。なお、山形を領したことから、山形氏と表記されることがある(太田亮『姓氏家系大辞典』)。
最上氏初代兼頼以降、寒河江氏を討伐して出羽国最上郡の南朝勢力を一掃し(1368年漆川の戦い)、2代直家・3代満直最上郡村山郡各地へ子らを分散配置することにより勢力を伸張するなど、室町時代に最初の最盛期を迎える。しかし、5代義春長禄4年(1460年)、古河公方討伐の御教書が最上氏とともに天童氏にも届けられるなど、分散配置した一族が独立傾向を強めた。最上義定永正元年(1504年)家督を継ぐと、後継者争いをする寒河江氏に3度攻め込み、実質的な傘下に置いた。永正9年(1512年)庄内で大宝寺氏砂越氏が争うと、勝者の村山地方への進出を警戒し、義定は寒河江まで軍を進めた。永正11年(1514年)侵攻した伊達氏長谷堂城で戦って敗北し、伊達稙宗の妹を義定が娶り和睦した。義定が後継男子を成さないまま死去すると、庶流中野氏から迎えた当時2歳の最上義守を傀儡として、伊達氏の介入を招いた。
戦国時代に入って伊達氏内部に天文の乱が起こると、成人した最上義守は伊達氏から長谷堂城を奪還して独立し戦国大名の道を歩み始める。義守の勢力拡張戦略は永禄3年(1560年)の寒河江氏攻めの失敗で頓挫するが、外交面では嫡男最上義光に将軍足利義輝の偏諱を賜り拝謁し、また御所号を賜る〔永禄6年(1563年)出羽国之御所山形殿父子「言継卿記」『中世出羽の領主と城館 奥羽史研究叢書2』p.97-98〕など一定の成果をあげた。また、娘の義姫伊達輝宗へ嫁がせ、義姫は伊達政宗を生んでいる。最上義光の家督相続の際に父子相克の争い(天正最上の乱)が起こるが、義光が家督相続を果たす。以後、庶族の天童氏、近隣の白鳥氏・寒河江氏を滅ぼし最上郡及び村山郡を平定する。さらには天正15年~16年(1585年1586年庄内地方をめぐり大宝寺氏上杉氏と争い、また大崎氏を攻めた伊達氏を破り壊滅寸前まで追い詰めた。
1590年(天正18年)に覇業を推し進める豊臣秀吉小田原征伐を機に臣従して本領を安堵され、山形城を居城にして24万石を領する。1591年(天正19年)には雄勝郡を獲得した。
その後、義光は娘駒姫関白豊臣秀次側室にしぶしぶ差し出す羽目に陥ったが、彼女は秀吉により秀次もろとも斬処されてしまった。これ以前より義光は徳川家康に接近していたが、さらに豊臣氏と距離を置き徳川氏への傾倒を強めた。秀吉の死後関ヶ原の戦いが起こると、東軍方として上杉氏らと戦った(長谷堂城の戦い)。また、北隣の小野寺氏とも交戦し、上浦郡平鹿郡雄勝郡)一帯を制圧した。
関ヶ原の戦いの際は東軍に与し、西軍の雄である上杉景勝の侵攻を退けた(慶長出羽合戦)。戦後にその恩賞で加増され、置賜郡を除く現在の山形県全土と秋田県由利本荘市周辺(1602年(慶長7年)、佐竹氏との領土交換により雄勝郡平鹿郡と引き換えた)を手に入れ、計57万石(実高は100万石とも称する)を領する大大名になり、2度目の最盛期を迎える。江戸時代に入ると、義光の後継をめぐって争いが起き、長子の義康の暗殺事件が起こる。以降も家中の内紛はやまず、義光の孫義俊の代には最上騒動が起こった。義俊は家中の信望を失っており、1622年(元和8年)、最上氏は騒動を理由に幕命により改易されることとなった。宗家の斯波武衛家が滅亡していたので、斯波氏の流れを汲む最上氏は断絶を惜しまれ、近江国蒲生郡に1万石の知行を改めて与えられた。しかし義俊の死後、子の義智が幼少であったために5000石に減知され(参勤交代等で財政が逼迫し、藩からの願いもあった)、子孫は旗本交代寄合として存続した。
義光の四男山野辺義忠は最終的には水戸藩家老に抜擢され、子孫は附家老中山氏に次ぐ重臣として藩政に重きをなした(テレビ時代劇「水戸黄門」において大友柳太朗高松英郎丹波哲郎らが演じた、謹直で古武士風の外見、何かと口うるさく、ご老公達が旅に出るのを止めようとする水戸藩国家老「山野辺兵庫」は山野辺家の家老をモデルにしている)。
また、義光の甥にあたる松根光広の子孫は宇和島藩の家老家として続き、幕末には伊達宗城を補佐した松根図書が出ている。夏目漱石の弟子で俳人の松根東洋城は図書の孫である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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