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お市の方 : ミニ英和和英辞書
お市の方[おいちのかた]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [し]
  1. (n-suf) city 
: [ほう]
  1. (n-adv,n) side 2. direction 3. way 

お市の方 : ウィキペディア日本語版
お市の方[おいちのかた]

お市の方(おいちのかた、天文16年〔享年37とだけ伝えられており、生年は没年から逆算したものである。後述のように生年には異説がある。〕(1547年) - 天正11年4月24日1583年6月14日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。小谷の方(おだにのかた)、小谷殿とも称される。名は通説では「於市」で、「市姫」とも云い、『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されている〔足立尚計著『風の俤 福井の客人たち』能登印刷出版部 2001年8月 ISBN 4-89010-385-6〕が定かではない。
戦国大名織田信長の妹(または従妹)で、信長とは13歳離れている。通説では、父は織田信秀で、五女と伝えられ〔神田裕理「お市との婚姻」(小和田哲男編『浅井長政のすべて』新人物往来社、2008年)97頁〕、母は土田御前とされている。信行秀孝お犬の方は同腹の兄姉という〔信包の生母を土田御前とする場合はこれに信包も加わる。また異説に信長や信包の市に対する待遇が姉妹の中では大変厚かったことから、信長・信包の同腹の妹であるという説もある。〕。初め近江の大名浅井長政の正室となり、後に織田家重臣の柴田勝家の後妻となった。
子に茶々豊臣秀吉側室)〔長女の茶々(淀殿)は通説では浅井長政との娘だが、『浅井氏家譜大成』を根拠として、茶々は連れ子という説があり、当時では晩婚であったために長政以外の男性に嫁いだ可能性がある。。〕・京極高次正室)・徳川秀忠継室)がいる。孫にあたる人物は豊臣秀頼(茶々の息子)、豊臣完子千姫徳川家光徳川和子(江の娘、息子)など。徳川和子は後水尾天皇の中宮となり、その娘は明正天皇となったので、今上天皇の先祖に当たる人物でもある〔明正天皇は独身で子がなかった。しかし、三女・江の娘・豊臣完子は九条幸家に嫁いで九条道房を生み、その子孫が大正天皇皇后・節子昭和天皇の母であるため、今上天皇と血が繋がっている。〕。
== 生涯 ==
前半生についてはほとんど記録がなく不明である〔。
婚姻時期については諸説あるが、通説では、永禄10年(1567年)9月または永禄11年(1568年)早々〔奥野高廣「織田信長と浅井長政との握手」(『日本歴史』248号、1969年)〕の1月から3月〔宮本義己「信長の婚姻大作戦」(『歴史読本』31巻16号)〕ごろ、美濃福束城市橋長利を介して、浅井長政に輿入れしたとされる〔江戸時代前期の寛文の末に書かれた軍談物『浅井三代記』では、兄・信長の「娘分」として永禄7年(1564年)に近江国浅井長政に嫁いだとされる。〕。この婚姻によって織田家と浅井家は同盟を結んだ。なお、長政は主家である六角家臣平井定武との婚約がなされていたが、市との婚姻により破談となっている。
元亀元年(1570年)、信長が浅井氏と関係の深い越前国福井県)の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶した。しかし、政略結婚ではあったが、長政と市の夫婦仲は良かったらしい。永禄13年頃から実家の織田家と浅井家が対立するようになり、緊張関係が生じた時でも、娘を出産したことから夫婦間は円満であったように思える〔神田裕理「お市との婚姻」(小和田哲男編『浅井長政のすべて』新人物往来社、2008年)104-105頁〕。
長政が姉川の戦いで敗北した後、天正元年(1573年)に小谷城が陥落し、長政とその父・久政も信長に敗れ自害した。市は3人の娘「茶々」「初」「江(江与)」と共に藤掛永勝〔信長によって結婚の際に織田家から付けられた家臣。〕によって救出され織田家に引き取られるが、長男の「万福丸」〔『浅井氏家譜大成』によると、長政の先妻の子で市の養子になったとされる。〕 は捕われて殺害され、次男の「万寿丸」〔実母不明で、側室の子とされる。〕 は出家させられる。その後は信長の許しを得て、清洲城にて兄の信包の庇護を受け、三姉妹と共に9年余りを平穏に過ごしたという。この時の信長の市親子に対する待遇は大変厚く、市や三姉妹のことを気にかけ、贅沢をさせていたという。信包も市や三姉妹を手元で保護し、姪達を養育したという。
また、別の説では、市と三姉妹は信包の庇護ではなく、尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたともいわれている〔『渓心院文』より。宮本義己『誰も知らなかった江』(毎日コミュニケーションズ、2010年)66-74頁〕。
信長死後の天正10年(1582年)、柴田勝家と羽柴秀吉が申し合わせて、清洲会議で承諾を得て、勝家と再婚した。従来の通説では、神戸信孝の仲介によるものとされてきたが、勝家の書状に「秀吉と申し合わせ…主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」と書かれたものがあり、勝家のお市への意向を汲んで清州会議の沙汰への勝家の不満の抑える意味もあって、会議後に秀吉が動いたとの別の説も指摘されている〔<『南行雑録』所収堀秀政宛て天正10年10月6日勝家書状「覚書」>『戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い』高柳光寿 P.25-26、P.226-227、学研M文庫 2001、原本 春秋社 1978年〕。婚儀は本能寺の変の4か月後の8月20日に、信孝の居城岐阜城において行われた〔。同年、勝家の勧めにより、京都の妙心寺で信長の百箇日法要を営んだ。
天正11年(1583年)、勝家が羽柴秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れたため、夫〔勝家と夫婦であった期間は6か月ほどに過ぎない。〕と共に越前北ノ庄城内で自害した。享年37。
辞世は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ郭公かな」〔桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)15頁〕
墓所は西光寺(福井県福井市)。菩提寺は自性院(福井県福井市)、幡岳寺(滋賀県高島市)。戒名は自性院微妙浄法大姉、東禅院殿直伝貞正大姉(自性院照月宗貞とも伝わる)。また小谷城跡(滋賀県長浜市)のある小谷山山頂に旧跡がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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