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浅井久政 : ミニ英和和英辞書
浅井久政[あざい ひさまさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [い]
 【名詞】 1. well 
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 

浅井久政 : ウィキペディア日本語版
浅井久政[あざい ひさまさ]

浅井 久政(あざい ひさまさ、淺井 久政)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将北近江戦国大名浅井氏2代目当主。

== 生涯 ==
大永6年(1526年)、浅井亮政の長子(庶長子の説あり)として誕生。生母は側室・馨庵(近江尼子氏の出。出雲尼子氏はその庶家にあたる)とされる。なお生母について諸説あり、『六角佐々木氏系図略』「浅井過去帳」によれば、六角宗能(親泰)側室・浅井千代鶴とされており、尼子氏は養母とされる。妻は近江豪族・井口経元の娘・小野殿(阿古御料人)。
天文11年(1542年)、父・亮政が死去したため跡を継いだが、勇猛な父とは対照的に武勇に冴えなかった。また、亮政は正室との間に生まれた海津殿(久政の異母姉)の婿として、田屋明政(田屋氏は浅井氏庶家)に家督を譲ることを望んでいたともいわれる。
そのため、義兄・明政は久政の家督相続を承服せず反乱をおこしており、久政の家督相続は家中に少なからぬ禍根を残す結果となった。その後、久政が当主となってからの浅井家は次第に六角氏の攻勢に押されてついにその配下となってしまった。嫡男に六角義賢の一字「賢」の字を偏諱として受けさせ、「賢政」と名乗らせたりその妻に六角氏家臣・平井定武の娘を娶らせるなど、六角氏に対しては徹底した従属的姿勢をとった。
このような、久政の弱腰外交に家臣たちの多くが不満をもつようになり、永禄3年(1560年)に久政の嫡男・賢政(のちの長政)野良田の戦いで六角義賢に大勝し六角氏から独立すると、家臣たちから家督を長政に譲ることを強要され、強制的に隠居させられることとなった。一時は竹生島に幽閉されていたほどである。しかしこのクーデター的家督移譲には不明瞭なところが多く、久政は隠居してもなおも発言力を持ちつづけ、父以来の朝倉氏との友好関係に固執し、新興勢力の織田氏との同盟関係の構築には終始反対しつづけたとされる。
そのような発言力を持った状態で、織田氏と朝倉氏が対立を深め、両家と同盟関係にあった浅井家はどちらにつくかの決断を迫られた場面で久政は強硬に朝倉方につくべきであると主張し、長政が折れる形で信長に反旗を翻すが、数年間の抵抗の末、浅井・朝倉連合は織田氏に敗北する。
天正元年(1573年)、織田軍は一乗谷陥落後、打って返して小谷城を攻撃。京極丸を木下秀吉隊に落とされ、久政の籠る小丸は長政の本丸と分断された。木下勢はそのまま小丸を攻撃。最期を悟った久政は井口越前守・脇坂久右衛門らを呼び、切腹するため敵勢を食い止めるように言い渡した(彼らは木下勢より屋敷を死守し討ち死)。久政は一族・浅井福寿庵、舞楽師の森本鶴松大夫と共に盃を傾けた後に切腹した。これを福寿庵(惟安)が介錯し、次に福寿庵を鶴松大夫が介錯した。なお、鶴松大夫は「主君と同じ座敷では恐れ多い」と言って庭で切腹し、それを見届けた脇坂久右衛門もすばやく腹を切ったという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「浅井久政」の詳細全文を読む




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