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加藤清正 : ミニ英和和英辞書
加藤清正[かとうきよまさ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [か]
 【名詞】 1. addition 2. increase 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 

加藤清正 : ウィキペディア日本語版
加藤清正[かとうきよまさ]

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名肥後熊本藩初代藩主。別名虎之助(とらのすけ)
豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人である。各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国を与えられ、熊本藩主となった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。
== 生涯 ==

=== 秀吉の子飼いから肥後の大名へ ===
永禄5年(1562年)6月24日、刀鍛冶の加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる。母は鍛冶屋清兵衛の娘・伊都。父が清正の幼いときに死去したため、母とともに津島に移る。母が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であったことから、天正元年(1573年)、近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。清正は秀吉の親戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。清正もこれに応え、生涯忠義を尽くし続けた。
近江の守護大名佐々木氏の一族で近江の名門の山崎片家の娘を娶り正室とする。
天正8年9月19日(1580年10月27日)に秀吉から播磨国神東郡内に120石を与える知行宛行状(天理図書館所蔵『加藤文書』〔
本文は大浪和弥「加藤清正と畿内-肥後入国以前の動向を中心に-」より引用〕)が記録上の最初の登場である〔山田貴司「加藤清正論の現在地」(山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4)〕〔大浪和弥「加藤清正と畿内-肥後入国以前の動向を中心に-」(初出:『堺市博物館研究報告』32号(2013年)/山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4)〕。
天正10年(1582年)4月14日、中国経略中の秀吉が冠山城を攻めたとき、清正は城に一番乗りを果たして奮闘し、竹井将監という豪の者を討ち取っている。
天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、清正は秀吉に従って山崎の戦いに参加した。翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石〔近江郡栗太郡1800石、山城国内50石、河内国讃良郡1097石の合計2947石(大浪(2013)より)〕の所領を与えられた。
天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下主計頭に叙任する。
天正14年(1586年)からは秀吉の九州平定に従い、肥後国領主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国19万5,000石を与えられ、熊本城を居城とした。
ところで、清正は賤ヶ岳の戦い以降、小牧・長久手の戦い四国征伐・九州平定に参加しているが、ほとんどが後備として秀吉の周囲を守るか後方支援にあたっていた〔〔。例えば、小牧・長久手の戦いの時に作成されたとみられる陣立書が残されているが、そこに記された加藤虎介(清正)の動員兵力はわずか150名であった〔稲葉継陽「加藤清正の歴史的位置」(初出:熊本県立美術館 編『生誕四五〇年記念展 加藤清正』(2012年)/山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4)〕。『清正記』などの清正の伝記にはいくつもの武功に関する記載と秀吉からの感状の引用が記されているが、それらは全て創作である〔。当時の清正が秀吉から期待されていたのは、豊臣政権の財務官僚としての役割であった。記録で確認できるだけでも豊臣氏の播磨国や和泉国にあった蔵入地の代官、九州平定後の上使としての戦後処理、尾藤知宣が改易されて闕所地となった讃岐国に新領主に決まっていた生駒親正が入国するまで代官として臨時に統治業務にあたる仕事などが知られている(なお、『清正記』や『清正行状』には秀吉が清正を領主に取り立てる際に清正に讃岐と肥後半国を選ばせたが、清正が唐入りの先鋒とならんがために肥後を希望した話に創作されている)〔。また、和泉国の代官を務めたことで、堺の商人との関係を深めることになった〔。なお、清正が肥後半国を与えられた理由としては、九州平定が終わった直後に肥後国人一揆が発生し、不安定な政治情勢が続いていた肥後の情勢を鑑み、長年代官を務め、九州平定・肥後国人一揆後に上使として派遣されて現地に通じている清正に肥後半国を託したと考えられている(なお、南半国を与えられた小西行長も上使を務めていた)〔〔。
肥後における治績は良好で、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、世に知られた治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮した。ただし、その一方で、移封直後に発生した朝鮮半島への出兵が領国統治に暗い影を落とすことになる。
天正17年(1589年)、小西領の天草で一揆が起こると、小西行長の説得を無視して出兵を強行、これを瞬く間に鎮圧している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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