翻訳と辞書
Words near each other
・ 下元克己
・ 下元勉
・ 下元史朗
・ 下元史郎
・ 下元年世
・ 下元明子
・ 下元熊弥
・ 下元連
・ 下光比売命
・ 下光軍二
下克上
・ 下克上エクスタシー
・ 下兵庫駅
・ 下兵庫駅 (和歌山県)
・ 下兵庫駅 (福井県)
・ 下内田
・ 下内田村
・ 下内間木
・ 下冷泉家
・ 下冷泉為柔


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

下克上 : ミニ英和和英辞書
下克上[げこくじょう]
【名詞】 1. juniors dominating seniors 2. retainer supplanting his lord
===========================
: [した, もと]
 (adv) under (esp. influence or guidance)
下克上 : [げこくじょう]
 【名詞】 1. juniors dominating seniors 2. retainer supplanting his lord
: [じょう]
 (n,pref,suf) 1. first volume 2. superior quality 3. governmental 4. imperial 5. top 6. best 7. high class 8. going up 9. presenting 10. showing 1 1. aboard a ship or vehicle 12. from the standpoint of 13. as a matter of (fact) 13. superior
下克上 : ウィキペディア日本語版
下克上[げこくじょう]

下剋上 / 下克上 (げこくじょう)とは、日本史において下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して身分秩序(上下関係)を侵す行為をさす。
==概要==
元々は6世紀頃の中国・隋の書物に見られた言葉。日本では、用語としては鎌倉時代から南北朝時代より見られ、鎌倉時代後期から出現した自らの既得権益を守るために権力と戦う悪党や、南北朝時代の社会的風潮であった「ばさら」も下克上の一種とされた。足利尊氏1336年に制定した幕府の施政方針を示した政綱である「建武式目」にてばさらを禁止している。
こうした傾向は室町期に顕著となり、「下剋上する成出者」と二条河原の落書に詠われ、戦国時代の社会的風潮を象徴する言葉ともされる。公家武家に、将軍管領に、守護守護代にと下位の者に実権を奪われ、こうした状況を下克上と理解するのが、当時のほぼ一般的な観念だった。中世の武家社会において、主君は家臣にとって必ずしも絶対的な存在ではなく、主君と家臣団は相互に依存・協力しあう運命共同体であった。そのため、家臣団の意向を無視する主君は、しばしば家臣団の衆議によって廃立され、時には家臣団の有力者が衆議に基づいて新たな主君となることもあった。
一族衆が宗家の地位を奪って戦国大名化する例は枚挙にいとまがないほどであり、例えば、島津忠良南部晴政里見義堯らの事例がある。またその他、河内守護家畠山氏や管領家細川氏では守護代による主君廃立がたびたび行われた。陶晴賢による大内義隆の追放・討滅といった例もある。
中央政界においても、赤松氏による将軍足利義教の殺害(嘉吉の乱)、細川政元による将軍足利義材の廃立(明応の政変)、松永久秀による将軍足利義輝の殺害といった例があり、将軍位すら危機にさらされていたのである。
しかしながら、こうした家臣が主君を倒した例は、下克上の名の通り実際に下位者が上位者を打倒し、地位を奪う例とは限らない。主君を廃立した後に家臣が主君にとって代わる訳ではなく、主君の一族を新たな主君として擁立する例が多くみられる。上述の赤松・細川・松永氏による下克上の後も、実際には足利氏の者が将軍に擁立されている。大内義隆を討滅した陶晴賢が、自らが大内氏に取って代わるのではなく、大内義長を主君として迎えたのは、その典型である。家臣が主君にとって代わった場合も、その家臣はほとんどが主君の一族である。
そのため、下克上を文字通りの意味ではないとして、鎌倉期から武家社会に見られた主君押込め慣行として理解する見解もある。例えば、武田晴信による父武田信虎の追放も、実際には家臣団による後押しがあってのものであり、主君押込めの一例とされている。必ずしも主君を討滅する必要はなく、目的が達成できれば主君を早期に隠居させ、嫡男が主君になるのを早めるだけでもよかったのである。
このように、戦国期の流動的な権力状況の中心原理を、下克上ではなく、主君押込めによって捉え直す考えが次第に主流となっている。戦国大名による領国支配は決して専制的なものではなく、家臣団の衆議・意向を汲み取っていた。その観点からすると、戦国期の大名領国制は戦国大名と家臣団の協同連帯によって成立したと見ることもできる。家臣団の衆議・意向を無視あるいは軽視した主君は、廃位の憂き目に遭った。そして一方で、主君と家臣の家の上下関係は絶対であって、個人としての主君は廃位されても、一族においての主君の地位は維持された。
もっとも、室町時代の守護大名のうち、戦国時代を経て安土桃山時代近世大名として存続しえたのは、上杉家結城家京極家和泉細川家小笠原家島津家佐竹家宗家の8家に過ぎない。守護以外の者が守護に取って代わって支配者となる現象は、戦国時代において頻発していたのも事実である。
従って、確実に下克上と言える事例も多々存在する。例えば斎藤道三の美濃の国盗りは、典型的な下克上の例である。しかしこの下克上は、旧守護土岐氏の家臣たちの反感を招き、後に嫡男・義龍と敵対した際に、ほとんどの家臣が義龍の側につくという結果を招いた。その斎藤義龍は道三の実子ではなく、旧守護・土岐頼芸の子であるという説がある。確証は無いもののそうした噂が立つ事自体が、下克上に対して抵抗が大きかった事を示している(言葉を換えれば、道三と義龍との敵対も、家臣らによる主君である道三の押し込め、義龍の擁立であり、主導したのは家臣らであったという説もある)。
戦国時代の下克上の最大の成功例は、織田信長によるものである。信長は主君の下尾張守護代・織田信友を討滅し、続いて自ら擁立した尾張守護・斯波義銀を追放し、さらには将軍・足利義昭も追放して、事実上その地位を奪っている。だがそうした信長の姿勢は皮肉にも家臣の豊臣秀吉に継承された。
しかし、この風潮は徳川家康の下克上によって終止符を打たれた。
こうして家康以降は、下克上の風潮は廃れたが、主君押込めの風潮はその後も残った。幕末に至るまでしばしば主君押込めが見られた。名君として知られる上杉鷹山も、その改革の成功は、改革に反対する家老たちによる主君押込めの試みを乗り切ったうえではじめて成ったものであった。
なお、真に下克上と言われる場合においても、倒すのは直接の上位者であり、さらなる上位者の権威は否定せず、むしろその権威を借りる場合が多い。織田信長は最終的には追放に至るものの途中までは斯波義銀や足利義昭の権威を借りており、朝廷の権威は終生に至って借りている。安芸守護を討滅した毛利元就も、室町幕府と朝廷には忠実であった。極悪人とされる宇喜多直家も、勤王家としての側面を持っていた。伊勢氏出身の幕府官僚であった北条早雲による伊豆国侵入(堀越公方家の討滅)も、幕府の足利義澄の将軍擁立と連動したともいわれる。後を継いだ後北条氏も、名目上は常に関東公方(古河公方)を擁し、幕府からの正式な補任はなされないまま、山内上杉氏に対抗して関東管領を自認していた。
また、近年の批判として実際には主君の方が家臣の生殺与奪の権利を掌握し、中世日本を通じても下克上とは反対の現象――上位の者が下位の者を討つ上克下/上剋下の方が多く、ほとんどの場合は上下の者が対立した場合には下位の者が下克上を行う前に上位の者から勘気を蒙って殺害(すなわち上克下)されており、上克下を無視して下克上だけを取り上げるのは現実の中世社会とは乖離しているとする指摘もある〔久保賢司「〈戦国〉期 上克下論」(佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-740-3) 〕。浅井氏による江北の支配も、形式的には当初は京極氏を推戴する「主君押込め」であり、後に京極氏が追放されるのは、京極氏による支配権奪還の失敗、つまり京極氏が「上克下」を行おうとした事への反撃であった。前述の後北条氏の下克上も、上克下への反撃としての主君押込めの事例も見られる。
なお、昭和期の日本陸軍において、正規の指揮系統が軽んじられ、いわゆる青年将校参謀などがしばしば越権的にイニシアティブを行使した風潮も下克上と呼ばれる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「下克上」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.