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ジム・ブランゼル : ミニ英和和英辞書
ジム・ブランゼル[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

ジム・ブランゼル : ウィキペディア日本語版
ジム・ブランゼル[らん]

"ジャンピング" ジム・ブランゼル"Jumping" Jim Brunzell、本名:James Brunzell1949年8月13日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーミネソタ州ホワイトベア・レイク出身(ミズーリ州カンザスシティ出身ともされる〔『THE WRESTLER BEST 1000』P171(1996年、日本スポーツ出版社) 〕)。
現役選手時代は甘いマスクの正統派ベビーフェイスとして、AWAを中心にNWAWWFでも活躍。「ジャンピング」の異名通り、跳躍力を活かした打点の高いドロップキックを得意技とした。
== 来歴 ==
学生時代はハイジャンプアメリカンフットボールなどのスポーツで活動〔。1972年12月、地元ミネソタAWAにてプロレスラーとしてデビュー。その後、中西部NWAセントラル・ステーツ地区にてマイク・ジョージとの若手コンビで売り出され、1973年10月25日にロード・アル・ヘイズ&ロジャー・カービーから同地区認定のNWA世界タッグ王座を奪取した。
1974年3月にはAWAルートで国際プロレスに初来日、3月31日に釧路にて、ザ・ブルートと組んでラッシャー木村&グレート草津IWA世界タッグ王座金網タッグ・デスマッチで挑戦した〔『忘れじの国際プロレス』P102(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)〕。本来はデスマッチとは無縁のベビーフェイスであったにもかかわらず、来日中はセーラー・ホワイトとのタッグでも金網戦に出場し、4月3日には二戸で草津&アニマル浜口と、4月18日には直方で浜口&マイティ井上とそれぞれ対戦している。
1976年、AWAでバーン・ガニアの息子グレッグ・ガニアハイ・フライヤーズThe High Flyers)を結成し、1977年7月7日にブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンからAWA世界タッグ王座を奪取。以降、ジミー・バリアント&ジョニー・バリアントスーパー・デストロイヤー&アンジェロ・モスカレイ・スティーブンス&パット・パターソンなどのチームを下して長期政権を築くが、1978年9月にチャリティーソフトボール大会に参加した際の負傷により王座を剥奪された〔。
復帰後の1979年ノースカロライナNWAミッドアトランティック地区に参戦。リッキー・スティムボートポール・オーンドーフブラックジャック・マリガン、そして一時的にフェイスターンしていた同期のリック・フレアーとも共闘し、アーニー・ラッドジミー・スヌーカビッグ・ジョン・スタッドグレッグ・バレンタインマスクド・スーパースターバロン・フォン・ラシクなどのヒール勢と対戦、7月にはハーリー・レイスNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦している。9月14日にはケン・パテラを破りミッドアトランティック・ヘビー級王座を獲得、11月22日にレイ・スティーブンスに奪取されるが12月25日に奪還し、1980年5月11日にアイアン・シークに敗れるまで戴冠した。 同年11月には全日本プロレス世界最強タッグ決定リーグ戦ニック・ボックウィンクルのパートナーとして出場している。
古巣のAWAでは1981年にグレッグ・ガニアとハイ・フライヤーズを再結成し、同年6月14日にイースト・ウエスト・コネクション(ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニス)を破り、AWA世界タッグ王者チームに返り咲く〔。以降、ジェリー・ブラックウェル&シーク・アドナン・アル=ケイシー、ケン・パテラ&ボビー・ダンカンなどのチームを抗争相手に、1983年6月26日にザ・シークス(ジェリー・ブラックウェル&ケン・パテラ)に敗れるまで、2年間に渡って同王座を保持した〔。戴冠中は、ニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦した。
その間、1982年5月にハイ・フライヤーズとして全日本プロレスに参戦。6月8日の蔵前国技館大会ではリッキー・スティムボート&大仁田厚を相手にAWA世界タッグ王座を防衛している。1984年4月にもグレッグ・ガニアとのハイ・フライヤーズで全日本に再来日し、PWF世界タッグ王座の決定リーグ戦に参加、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディミラクルパワーコンビとも対戦した。来日中の4月26日には大宮にて、同年2月にニック・ボックウィンクルを破りAWA世界ヘビー級王者となっていたジャンボ鶴田にも挑戦した(来日前の3月15日にもユタ州ソルトレイクシティにおいて、新王者としてアメリカに遠征してきた鶴田のAWA世界ヘビー級王座に挑戦している)。
1985年、AWAを離れてWWFと契約し、ブライアン・ブレアーとのキラー・ビーズThe Killer Bees)なるタッグチームで活動、覆面を被りマスクマンのコンビに変身することもあった。ハート・ファウンデーションブレット・ハート&ジム・ナイドハート)やファンク・ファミリー(ホス・ファンク&ジミー・ジャック・ファンク)などのチームと抗争し、1987年11月26日に行われたサバイバー・シリーズ第1回大会)のタッグチーム・イリミネーション・マッチではヤング・スタリオンズ(ポール・ローマ&ジム・パワーズ)と共に勝ち残り、サバイバー・チームとなっている。しかしながら、タイトル獲得の機会には恵まれず、NWA、AWA、WWFの3大世界タッグ王座戴冠を果たすことはできなかった。
WWF離脱後の1989年からは、ハーブ・エイブラハムが興したカリフォルニアのUWFなどを転戦。1991年から1993年にかけてWWFに再出場し、ジョバーを務めていたこともある。1994年にはシカゴのインディー団体AWFにスペシャル・ゲスト・レフェリーとして登場、WWF時代の盟友ティト・サンタナカウボーイ・ボブ・オートンの試合を裁いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジム・ブランゼル」の詳細全文を読む




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