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蔵前国技館 : ミニ英和和英辞書
蔵前国技館[くらまえこくぎかん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [そう, くら, ぞう]
 【名詞】 1. warehouse 2. cellar 3. magazine 4. granary 5. godown 6. depository 7. treasury 8. elevator
: [くに]
 【名詞】 1. country 
国技 : [こくぎ]
 【名詞】 1. national sport (e.g., sumo) 
国技館 : [こくぎかん]
 (n) hall of sumo in Tokyo
: [わざ]
 【名詞】 1. art 2. technique 
: [やかた, かん, たて, たち]
 【名詞】 1. (1) mansion 2. small castle 3. (2) boat cabin

蔵前国技館 : ウィキペディア日本語版
蔵前国技館[くらまえこくぎかん]

蔵前国技館(くらまえこくぎかん、正字体:藏前國技館)は、両国国技館(2代目)が造られるまで東京での大相撲本場所を開催していた場所である。外観は純和風で独特の雰囲気のあるものであった。
==概要==
東京都台東区蔵前2丁目1-1に所在していた。都営地下鉄浅草線蔵前駅から約徒歩5分。同駅南側(西馬込方)の改札口が広く、南・北行線間の連絡通路が南側にあるのは、当時の催事輸送時における混雑緩和に対応していたものである。
1941年昭和16年)に購入していた日本相撲協会の土地に戦後、海軍戦闘機組立工場の鉄骨の払い下げを受けて仮設される。収容人員は約11,000人。2階建てで、1階は溜まり席と枡席、2階は椅子席と貴賓席が設けられていた。GHQにより両国国技館が接収され、相撲興行が出来なくなった相撲協会は、明治神宮外苑の野天相撲や浜町の仮設国技館などで興行を続けていたが、本格的な興行場所を求めて蔵前に1949年昭和24年)10月23日地鎮祭より建設を開始、翌年「仮設」のまま蔵前国技館として開館した。
蔵前国技館が正式に完成したのは1954年(昭和29年)9月である。1952年(昭和27年)9月場所直前の9月19日、享保年間より250年にわたって続いてきた四本柱を撤廃、この場所より吊り天井となり4色(青・白・赤・黒)の房がぶらさげられるようになった。この時は吊り天井に屋根は無く、翌1953年(昭和28年)5月場所からは神明造の屋根(四本柱時代の1931年(昭和6年)5月場所より入母屋造の屋根から改められた)付きの吊り天井となった。これで土俵の雰囲気が変わるのはやむを得なかったが、勝負は見やすくなった。四本柱撤廃と同時期に1909年明治42年)1月の回向院以来、43年間にわたって本場所では絶えていた力士1952年(昭和27年)1月場所より復活、国技館の前は相撲情緒が大いに盛り上がった。またこの場所より弓取式を連日、結びの一番後に行うことになった。
開館式(1954年9月18日)では、千代の山鏡里の両横綱三段構えを行った。1971年(昭和46年)1月の改修落成記念式でも、玉の海北の富士の両横綱がこれを行っている。
この前年(1953年)の5月場所からテレビ中継放送が始まり、1958年(昭和33年)5月場所からは、東西2階席手摺りに自動電光掲示板が新設(十両以上の取組)された。1955年(昭和30年)5月場所(5月24日)10日目には昭和天皇が初めて国技館で相撲を観戦、以後天覧相撲は国技館で行われることとなる。
以上のように相撲史に残る数多くの出来事があり、「時代」「時代」「時代」の各黄金時代の舞台となるなど、蔵前国技館が使用されていた時代は、戦後の大相撲で最も活気ある時代でもあったといえる。
この時代の興行収入やプロレスボクシングなどの使用料収入が両国「新」国技館の建設費用に貢献したと言われている。プロレスでは、プロレスブームの出発点となった力道山木村政彦シャープ兄弟の一戦に始まり、力道山対木村の日本選手権、ミルドレッド・バークらを招いて行われた日本初の女子プロレス大会、アントニオ猪木ジョニー・バレンタイン東京プロレス旗揚げ戦、ジャイアント馬場ボボ・ブラジルの馬場の三十二文ロケット三連発、ザ・ファンクスブッチャーシークの『世界オープンタッグ選手権』最終戦、初代タイガーマスクデビュー戦・タイガーマスク対ダイナマイトキッドなど、昭和プロレスの名勝負の数々が戦われた会場でもある。ボクシングでもポーン・キングピッチ関光徳の世界フライ級タイトルマッチを皮切りに数多くの世界戦が組まれた。蔵前国技館で初めて世界王座を獲得した日本人選手はファイティング原田で、ポーンを11ラウンドK.O.で退けた後に世界チャンピオン誕生を祝福する座布団の舞が起こった。また、沼田義明小林弘の史上初となる日本人同士の世界戦が行われたのも蔵前国技館である。
なお、当時は現在の両国国技館のようにエレベーター上下式の土俵ではなかったため、プロレスやボクシングなどの興行を行うときには、土俵の真上にリングを設置していた。そのため、プロレス興行に登場する悪役レスラーが、リングの下から土俵の土、及び砂を握って、反則攻撃に使うことがお馴染みとなっていた。また、
1953年(昭和28年)、第1回全日本剣道選手権大会1956年(昭和31年)、第1回世界柔道選手権大会の会場にも使用された。
漫画『あしたのジョー』でも金竜飛戦の会場として描かれたことがあった。
1966年5月18日付の『報知新聞』には「蔵前国技館の跡地に収容人数2万2000人の新国技館を建設する」という趣旨の記事が掲載されていたが、この年あたりから相撲人気の陰りが見えて民放テレビ各局が相撲中継から撤退した影響で、結局この「大国技館構想」は実現に移されなかった。〔『大相撲ジャーナル』2014年2月号98頁から99頁〕
1975年10月19日、『キャンディーズ10000人カーニバル』、1976年10月11日、『キャンディーズ10000人カーニバル Vol.2』のコンサートがそれぞれ開催され、『10000人カーニバルVol.2』では、13500人が入場している。
1984年(昭和59年)9月場所千秋楽を最後に閉館。翌年1月場所からは現在の両国国技館へ興行場所が移った。蔵前国技館跡地は東京都に売却し、その売却益が両国国技館建設の資金となった。跡地は現在、東京都下水道局の処理場と「蔵前水の館」になっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「蔵前国技館」の詳細全文を読む




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