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ブライアン・ブレアー : ミニ英和和英辞書
ブライアン・ブレアー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ブライアン・ブレアー : ウィキペディア日本語版
ブライアン・ブレアー[ちょうおん]

ブライアン・ブレアーB. Brian Blair1954年1月12日〔 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーインディアナ州ゲーリー出身。
1980年代を全盛期に、一貫してベビーフェイスのポジションで活動した。WWFにおけるジム・ブランゼルとのタッグチームキラー・ビーズThe Killer Bees)での活躍でも知られる。
== 来歴 ==
ルイビル大学卒業後、ヒロ・マツダのトレーニングを受け、エディ・グラハムが運営するNWAフロリダ地区にて1977年にデビュー〔。以降、ボブ・ガイゲルの主宰するカンザスシティNWAセントラル・ステーツ地区や、レロイ・マクガークが管理していたオクラホマのNWAトライステート地区などを転戦。1980年にはレロイ・マクガークの娘のミッシェル・マクガーク(1980年代末から1990年代初頭にかけて、WWF初の女性リングアナウンサーを務めていたマイク・マクガーク)と結婚したが、後に離婚している。
1981年フリッツ・フォン・エリックの牛耳るテキサス州ダラスのWCCWに参戦し、キラー・ブルックススタン・スタージャックらベテランのヒール勢と対戦。6月にはアル・マドリルとのコンビでトーナメントに優勝し、NWAアメリカン・タッグ王座を獲得した。1982年はフロリダに戻り、7月11日にジム・ガービンからNWAフロリダ・ヘビー級王座を奪取したが、8月23日にブルーザー・ブロディに敗れタイトルを失っている。
1983年ビンス・マクマホン・シニア時代のWWFに出場し、WWFとの提携ルートにより同年7月に新日本プロレスに初来日。同時参加していたディック・マードックアドリアン・アドニスアブドーラ・ザ・ブッチャー、兄弟子のポール・オーンドーフともタッグを組み、藤波辰巳前田日明長州力アニマル浜口らと対戦した。新日本には同年10月と翌1984年10月にも再来日している。以後、1985年上期までは古巣のフロリダを主戦場に活動、1月6日にジェシー・バーを破りフロリダ・ヘビー級王座を再び獲得し〔、4月10日にはリック・ルードから南部ヘビー級王座を奪取した。
1985年下期、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で全米侵攻を推進させていたWWFと再契約。同じくヒロ・マツダの弟子であるハルク・ホーガンの提案により、ジム・ブランゼルタッグチームを結成する。両者ともにファミリーネームの頭文字が "B" であり、機動力を活かした空中戦を得意としていたことから、蜂(ビー)をイメージしたキャラクターとしてキラー・ビーズのチーム名が与えられた。黒と黄色の縞模様のショートタイツを履き、対戦相手を混乱させるため状況に応じて覆面レスラーに変身するなどの演出で子供たちの支持を獲得。WWF世界タッグ王座への戴冠は果たせなかったものの、ハート・ファウンデーションブレット・ハートジム・ナイドハート)、ドリーム・チーム(ブルータス・ビーフケーキグレッグ・バレンタインディノ・ブラボー)、ザ・ファンクステリー・ファンクホス・ファンクジミー・ジャック・ファンク)などヒールのユニットと抗争を展開した。
1988年8月にWWFを離脱し、以降は各地のインディー団体を転戦。1992年3月にはキラー・ビーのリングネームで新日本プロレスに久々に登場した。1994年にはカリフォルニア州マリナ・デル・レイのUWFでブランゼルとキラー・ビーズを再結成。 1998年にはホームタウンのフロリダにて、インディー版として復活したNWAフロリダ・タッグ王座をスティーブ・カーンとのコンビで獲得、2000年にもブッチ・ミラールーク・ウィリアムスザ・ブッシュワッカーズを相手に同王座を争った。2001年10月7日にはスティーブ・カーン、ドリー・ファンク・ジュニアボブ・バックランドと共に、藤波辰爾の自主興行『無我』の後楽園ホール大会に来日、12日と13日の新日本プロレスの興行にも残留参戦した。
引退後は2004年11月にタンパのカウンティ・コミッショナーに選出されるなど、近年はフロリダの郡会議員となって活動している〔。
2015年4月には、姪のチェルシー・ダイヤモンドスターダムに参戦した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ブライアン・ブレアー」の詳細全文を読む




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