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文芸倶楽部 : ミニ英和和英辞書
文芸倶楽部[ぶんげいくらぶ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 
文芸 : [ぶんげい]
 【名詞】 1. literature 2. art and literature 3. belles-lettres 
: [げい]
 【名詞】 1. art 2. accomplishment 3. performance 
倶楽部 : [くらぶ]
 【名詞】 1. club 2. fraternity 3. sorority 4. clubhouse 
: [たのし, らく]
  1. (adj-na,n,n-suf) comfort 2. ease 

文芸倶楽部 : ウィキペディア日本語版
文芸倶楽部[ぶんげいくらぶ]

文芸倶楽部(ぶんげいくらぶ)は、1895年明治28年)1月から1933年昭和8年)1月まで、博文館が出版した文芸雑誌純文学誌として出発したが、大正期以降、大衆化した。
== 歴史 ==
博文館の既刊の、『世界文庫』『明治文庫』『逸話文庫』『文芸共進会』『春夏秋冬』が統合して、この雑誌になった。
:博文館はこのとき、『日本商業雑誌』『日本大家論集』『日本農業雑誌』『日本之法律』『婦女雑誌』を『太陽』誌に、『日本之少年』『幼年雑誌』『学生筆戦場』『少年文学』『幼年玉手箱』を『少年世界』誌にまとめた。『太陽』が総合雑誌、『文芸倶楽部』が文芸雑誌、『少年世界』が少年雑誌という3本立てだった。
創刊時は、菊判、約240ページ。硯友社系の小説と豪華な挿画とを『売り』にした。
歴代の編集者は次。
* 宮沢春文:1895年1月から1897年8月まで。
* 三宅青軒:1897年9月から1902年11月まで。
* 田村松魚:1901年1月から1902年11月まで。
* 石橋思案:1902年12月から1916年9月まで。
* 森暁紅:1923年 - 1924年頃。
* 森下雨村:1927年から。1931年退社。
前から博文館は、尾崎紅葉広津柳浪石橋思案川上眉山江見水蔭大橋乙羽巌谷小波徳田秋声泉鏡花武内桂舟らの硯友社と親しく、リーダーの紅葉の斡旋で、柳浪は博文館の元社員、小波は社員、水蔭と桂舟は準社員。そして乙羽は館主大橋佐平の婿だった。従って、先ず彼らが小説などを書いていた。泉鏡花はこの雑誌から世に出た。
その後、幸田露伴田山花袋国木田独歩樋口一葉らも小説を書いた。一葉は、文学界に連載した『たけくらべ』を、この雑誌に一括掲載して、文名を確かにした。
挿画は、日清戦争の報道で網目銅板写真の技術を磨き、また、梶田半古武内桂舟水野年方富岡永洗尾形月耕鏑木清方らの木版画で誌面を飾り、芸者や役者の肖像で目を引いた。
第2次新小説と、文芸雑誌の横綱を張っていたが、1903年(明治36年)秋に尾崎紅葉が没し、硯友社は解散した。島崎藤村の『破戒』(1906年)や田山花袋の『蒲団』(1907年)など、自然主義文学が台頭して、第2次『早稲田文学』や中央公論が勢いつき、『文芸倶楽部』は大衆化へと路線を変えた。
1907年(明治40年)頃から、講談や落語を載せるようになり、大正期に入って大衆向け娯楽雑誌の色彩を濃くした。岡本綺堂の『半七捕物帳』を1918年1月から1926年12月まで連載した。1927年(昭和2年)、森下雨村の編集になってからは、松本泰小酒井不木・森下雨村・延原謙保篠龍緒甲賀三郎江戸川乱歩大下宇陀児濱尾四郎水谷準らの探偵小説も載せた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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