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高階氏 : ミニ英和和英辞書
高階氏[たかしなうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [かい]
  1. (n,n-suf) -floor (counter) 2. stories 3. storeys 
: [うじ]
 【名詞】 1. family name 2. lineage 3. birth 

高階氏 : ウィキペディア日本語版
高階氏[たかしなうじ]

高階氏(たかしなうじ)は、「高階」をの名とする氏族天武天皇の長子、高市皇子を祖とする。
==概要==
長屋王の変の際、父・長屋王(母:吉備内親王)と共に自害した桑田王の子・磯部王が助命され、その孫の峯緒王844年(承和11年)に臣籍降下して高階真人を賜る。他に桑田王の異母兄弟である安宿王(母は藤原不比等の娘藤原長娥子)なども高階真人姓を賜ったが、いずれも早い段階で断絶した。
峯緒は伊勢権守となり、斎宮恬子(やすこ)内親王に仕えた。この縁により、伊勢斎宮の内親王在原業平が密通して生まれた男児を引き取り、師尚と名付け、自らの跡を嗣がせたとする伝承がある。この「師尚隠し子説」は事実無根という説も根強いが、後世の各種系図上にも実父は在原業平である旨の記載がある〔『尊卑分脈』、「高階氏系図」(『群書類従』巻第63所収)、「高階氏系図」(『続群書類従』巻第174所収)、『本朝皇胤紹運録』等〕。また後述されるように、数代後の時代ですら信憑性高く支持されていた。以後、高階氏の人々は伊勢神宮に参拝することを控えるようになったとされる。
成忠の時に、娘・貴子中関白家藤原道隆正室となり一条天皇中宮定子を産んだことによりにわかに繁栄し、この際にカバネ真人から朝臣に昇った〔大津透 『日本の歴史06 道長と宮廷社会』講談社学術文庫 ISBN 978-4062919067、41p〕。しかし、定子の生んだ敦康親王即位藤原道長により、道長自身の権力を強固にするため、また敵対関係であった中関白家を追い落とすために妨害された。前述の「師尚隠し子説」により、道長のブレーンで一条天皇の寵臣でもあり、当時の朝廷で故事に優れた知識人として知られた藤原行成〔敦康親王は2歳で母定子と死別し、道長の娘であり男子がいなかった中宮彰子の下で養育されていたが、その後彰子に敦成親王(のちの後一条天皇)が産まれている。一方、行成は敦康親王家の勅別当であった。〕が「高階氏の血を引く敦康親王の即位は、伊勢神宮の怒りを買う」と進言したことがひとつの要因となった。この頃中関白家もほぼ権力闘争に敗れた状態であり、成忠の子孫は中関白家と共に没落する。
一方、成忠の弟・敏忠の系統は道長に接近して、受領として勢力を築く。欲大弐と呼ばれた成章(高名な歌人大弐三位の夫〔大弐三位の母親は紫式部。一方、成忠の孫娘である中宮定子に仕えていたのが清少納言〕)、白河法皇近臣として法勝寺の造営を行った為家(母は大弐三位)・為章親子などが代表である。また、平清盛の室で平重盛の母の父であるとされる基章も知られる。
後白河院政期にも後白河側近の大蔵卿高階泰経、寵妃・高階栄子(丹後局)が活躍した。同じく院近臣として権勢をふるった藤原通憲(信西)も血縁である。しかし世は武家の時代となり、その後は有力者を出せず没落、朝廷においても南北朝期の寛経を最後に、公卿が出なくなった。
しかし、代々足利家執事をつとめた高氏が高階氏から出ているように、室町幕府の執事である高師直とその一族らが武家として繁栄している。
その一方、織田信長豊臣秀吉に仕え、江戸時代には大名となった堀尾吉晴は高階氏の末裔と称している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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