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藤原顕光 : ミニ英和和英辞書
藤原顕光[ふじわらあらわこう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [ひかり]
 【名詞】 1. light 

藤原顕光 : ウィキペディア日本語版
藤原顕光[ふじわらあらわこう]

藤原 顕光(ふじわら の あきみつ)は、平安時代中期の公卿
父の藤原兼通関白になると、昇進して公卿に列するが、兼通の死後はその弟の兼家、その子道長に実権を奪われる。無能者として知られ、朝廷の儀式で失態を繰り返して世間の嘲笑を買った。晩年、左大臣に上るが失意のうちに死去し、道長の家系に祟りをなしたと恐れられ、悪霊左府と呼ばれた。
==生涯==
兼通の長男として生まれる。応和元年(961年従五位下に叙せられる。
村上朝における朝廷の実力者であった祖父師輔の系統(九条流)は天皇との血縁関係を強く結び、師輔の娘の中宮安子が生んだ冷泉天皇円融天皇が相次いで即位して、政界の主導権を握り、長男伊尹がまず天禄元年(970年)に摂政となるが、2年後に死去。後継を巡って二男の兼通と三男の兼家が争った末、兄の兼通が関白宣下を受けた。
父の兼通が関白になると顕光も引き立てられ、天延3年(975年)に参議となり公卿に列したが、既にこの時点で権中納言となっていた弟朝光には昇進を越されていた。貞元2年(977年)には顕光も権中納言へ順調に昇進したものの、同年、兼通は病に倒れ死去した。
やがて、政界の主導権は兼家が握ったことで顕光の昇進は止まり、兼家の子たち(道隆、道兼、道長)に追い抜かれるようになる。正暦元年(990年)に兼家が死去すると、道隆が関白となる。弟の朝光は闊達な才人であり、かつ飲み仲間の道隆に近く、顕光が中納言であるのに対して、既に大納言に昇進していた。
長徳元年(995年)、都で疫病が広まると公卿が次々と罹患して死に、朝光も病没した。関白道隆も普段の大酒がもとで病死した。代わってその弟の道兼が関白になるが、病に倒れ数日で死去。この疫病により公卿に多くの空席が生じたために、顕光は権大納言に昇進した。
道兼の後継を巡って内覧宣旨を受けた右大臣道長(道兼の弟)と内大臣伊周(道隆の嫡男)が争うが、同2年(996年)に伊周とその弟の隆家花山法皇に矢を射かけるという事件を起こして失脚。道長は左大臣に進み、右大臣には従兄にあたる顕光が任じられる。顕光は形式的にはナンバー2となるが、実権は完全に道長のものだった。その上に顕光はかねてから無能で知られていた。有職故実・典礼に通じた学識人の藤原実資はその日記小右記』で「出仕以来、万人に嘲笑され通しだ」と顕光を酷評している〔寛仁元年十一月十八日条。「左相国、五品より始めて丞相に至るまで、万人嘲弄、已に休慰なし」〕。
同年、顕光は娘の元子を一条天皇女御として入内させた。中宮の定子は先に失脚した伊周の妹であり、しかも、道長の娘は幼くまだ入内していない。このような状況で元子が第一皇子を産めば顕光は将来の外戚となりうる可能性があった。そして、翌同3年(997年)に元子は懐妊する。元子は堀川第に里下りして出産に備え、顕光は僧侶を集めて男子出産を加持祈祷させた。ところが、元子は産み月になっても一向に産気づかない、顕光は寺へ連れてゆき安産の祈祷をさせ、ようやく産気づくが不思議なことに水が流れ出るばかりで、とうとう赤子は出てこなかった。この騒ぎで顕光と元子は世間の嘲笑を受けた〔『栄花物語』 五巻 浦々の別れ〕。
長保元年(999年)道長は長女彰子女御として入内させた。同2年(1000年)道長は彰子を中宮となし、定子を皇后にさせた。一帝に二后が立つ異例の事態だが、道長は権勢で押し通した。彰子は幼く、まだ元子が第一皇子を産む可能性もあったが、元子が再び懐妊することはなく、結局、寛弘5年(1008年)に彰子が敦成親王(後の後一条天皇)を生み、続いて敦良親王(後の後朱雀天皇)も生んだ。これで、道長との権勢の隔絶からも顕光が外戚となる可能性はほとんどなくなった。
同8年(1011年)、一条天皇が崩御して三条天皇(冷泉天皇の皇子)が即位した。東宮には当然のごとく彰子の生んだ敦成親王が立てられる。道長は三条天皇の外叔父にあたり、引き続き外戚ではあるが、両者は不仲となり、対立して政務が渋滞する事態となった。この時に三条天皇が頼りにしようとしたのは学識人の大納言藤原実資であり、一方、右大臣の顕光は左大臣の道長におもねっていた。
この頃、未亡人となった元子が参議源頼定と恋仲になった。これに顕光は激怒し勘当、元子の髪を無理やりに切って尼にさせようとするが彼女は頼定と共に駆け落ちし後に娘を二人儲けた。しかし邸宅の堀河第を妹の延子に継承させ、元子に継承させないという事件を起こしており相続権についての事で元子は彰子にこの件で相談している。
長和5年(1016年)、三条天皇は眼病を理由に道長から強く退位を迫られ、宮中で孤立していた三条天皇はこれに屈して敦成親王への譲位を認めるが、自らの第一皇子の敦明親王を東宮とすることを条件とした。道長はこれを受け入れた。
敦明親王には顕光の娘の延子が嫁して男子(敦貞親王)も生んでおり、再び外戚となる可能性が出てきた。もっとも、この時点で顕光はすでに70歳を超えており、息子の重家も思うところあって既に出家していた。
三条天皇の譲位に伴う固関・警固の儀式が行われ、顕光は自らこれを買って出た。道長は老齢な上に無能な顕光が儀式を取り仕切っては不安なので婉曲に断ったが、顕光は押し切って引き受けた。顕光は式次第を書き付けた草紙(ノート)を持って儀式に臨んだが、結果は儀式進行の手違いや失態が多く、またも公卿たちの嘲笑を買うことになり、実資は『小右記』に「(失態を)いちいち書いていては筆がすり切れる」と書き残し、道長も「至愚之又至愚也」と罵倒したと聞き記している〔長和五年一月二十五日条「今日の作法、前後倒錯、聊か其の事を記す、筆毫刓るべし、ただこれ略記なり。卿相、壁の後に出でて嘲り咲ふ」、同二十七日条。〕。この時代は典礼儀式が最も重んじられ、それをこなせない顕光は無能者とされ公家社会から軽んじられた〔ただし、こうした見方については異論もある。告井幸男は道長が全権を掌握している時期であるからと言っても、顕光が20年以上も大臣を務めていること(藤原公季を越えて右大臣となり、以後道長の近親や他の有力者の存在にも関わらずその地位を明け渡さなかった)、当時においても有職故実に関しては諸説分かれており実資の批判は自己の小野宮流の見解に反する行動が取られた場合に対する例が多いこと(顕光の従兄弟で賢臣として知られる斉信に対しても顕光同様の辛辣な非難が見られる)、儀式での失態の多くが道長関連のものであることを指摘し、儀式での失態とされるものの中には道長への牽制の意味を持った意図的な行動を含む可能性を指摘している(告井幸男「摂関期の有職故実 -御堂流の検討から-」(『日本史研究』第479号(日本史研究会、2001年9月)初出、『摂関期貴族社会の研究』(塙書房2005年)ISBN 978-4-8273-1192-1 所収))。〕。
顕光自身は典礼儀式を軽んじることはなく、(能力が伴ったかどうかは別としても)陣定など政務にも精励した。長徳4年、伊勢国において平維衡平致頼が合戦を起こした。律令の規定では、五位以上のものは許可なく畿外に出てはならないことになっており、この二人の罪状を定めることになった。最初は両者とも死罪に定められたが、のち遠流となり、結局は維衡のみ位階を奪わない移郷に落ち着いた(致頼は隠岐国に配流)。この際、参入した顕光は移郷となればその配所を決めるために改めて陣定を行う必要があるが、参入した公卿が三人と少なく憚りがあると言っている〔大津透 『日本の歴史06 道長と宮廷社会』 講談社学術文庫 ISBN 978-4062919067、222-224p〕。この件から顕光が他の公卿から軽んじられていて、彼が上卿だと陣定の参加者が少ないということと顕光が陣定の規定とその重要性をきちんと認識しているということが分かる。
敦成親王が即位して後一条天皇となると、東宮には約束通り敦明親王が立てられた。しかしながら、道長とは外戚関係がない上に、舅の顕光は頼りにならず、全く不安定な立場だった。
寛仁元年(1017年)3月、道長が左大臣を辞し、代わって顕光が左大臣に昇った。
同年5月に失意の三条上皇が崩御すると、その3ヶ月後の8月に敦明親王は自ら東宮の辞退を申し出た。しかも、道長は敦明親王に報いるとして上皇待遇の小一条院の称号を与え、さらに娘の寛子を娶らせた。敦明親王は延子と幼い敦貞親王を捨てて、寛子の元へ去った。夫を奪われた延子は絶望してほどなく病死する。
十訓抄』によると、この事件のために顕光は一夜にして白髪になってしまい〔近年の研究において、全ての頭髪が白髪になるまでは少なくともヘアサイクルが一巡する3~5年間を要することが解明されていることから、この記述は誇張法を用いたものであることが考えられる。〕、さらに道長を怨んで道摩法師(蘆屋道満)に呪詛させたという。
老齢の顕光はそれでも左大臣として数年出仕を続けた。この年の10月に火災で家を失った家司のために自分の堀河第の廊を削って住居として与えたことから「世以て甘心せず、誠に奇となすのみ」と評している(『小右記』)が、彼の情深い性格を示している。同2年(1018年)道長は後一条天皇に娘の威子を入内させた。その中宮への立后の際、皇后の位は娍子・中宮の位は妍子であり、皇太后のみが空位であった。そこで、妍子を皇太后に移し、空いた中宮に威子を立てることになった。儀式にあたっては「中宮(妍子)を皇太后にする」という宣命を係の内記に作らせる際に、顕光が誤って「皇后(娍子)を皇太后にする」という文を作れと命じ、道長から罵倒されている〔土田直鎮 『日本の歴史5 王朝の貴族』 中公文庫改版 中央公論新社 ISBN 978-4122044258、321p〕。
治安元年(1021年)未刻〔『春記治安元5月25日条〕、78歳で死去。
顕光の死後、万寿2年(1025年)に延子から敦明親王を奪った寛子が病死、続いて同年に東宮(敦良親王)妃嬉子が出産直後に急死。さらに2年後、三条天皇の中宮だった皇太后妍子崩御した。これらの道長の娘の続けての死は顕光と延子の怨霊の祟りと恐れられた〔寛子の死にあたって、「今ぞ胸あく」(ああ、すっきりした)という声が聞こえた。『栄花物語』 二十五巻 みねの月〕。それにより、顕光は悪霊左府と呼ばれるようになった。
なお、徳川氏譜代の家臣で、江戸時代譜代大名旗本となった本多氏佐賀藩の重臣石井氏は、顕光の後裔を称した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「藤原顕光」の詳細全文を読む




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