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藤原兼通 : ミニ英和和英辞書
藤原兼通[ふじわらけんどおり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [けん]
  1. (conj,n) and 2. in addition 3. concurrently 
: [つう]
  1. (adj-na,n) (1) connoisseur 2. authority 3. (2) counter for letters, notes, documents, etc. 

藤原兼通 : ウィキペディア日本語版
藤原兼通[ふじわらけんどおり]

藤原 兼通(ふじわら の かねみち)は、平安時代中期の公卿
== 生涯 ==
村上朝の実力者右大臣藤原師輔の次男に生まれる。天慶6年(943年従五位下に叙爵。同9年(946年周防権守に任ぜられる。天暦末に左近衛少将に遷り、春宮亮を兼ねる。康保4年(967年蔵人頭となる。
師輔は村上天皇に長女の安子を入内させたが、安子は天皇の寵愛深く、後に即位することになる憲平親王(冷泉天皇)、守平親王(円融天皇)を生み、伊尹・兼通・兼家の兄弟は政治上極めて有利な立場にあった。応和4年(964年)に突如安子が急死した。その際最後まで彼女に付き添ったのは師輔の死後に彼女を支えた2人の「兄」である伊尹(参議)と兼通(中宮権大夫)であった。〔『村上天皇御記』応和4年/康保元年4月29日条。〕なお、安子の「弟」であった兼家(左京大夫)はその場に立ち会うことはなかった。
康保4年(967年)、村上天皇崩御し、冷泉天皇即位とともに蔵人頭を弟の兼家と代わる。安和2年(969年参議に補せられ、従三位に叙す。弟の兼家の出世はこれを上回り、大納言に右近衛大将を兼ねていた。これは息子の正光が源高明の娘「中姫君」を娶っていたため〔『栄花物語』など〕、安和の変の際に兄弟の中で唯一高明派とみなされて冷遇されたとする説がある。兼通はこれに失望して出仕を怠るようになる。冷泉天皇に次いで即位していた円融天皇も伯父の兼通を好まなかった。天禄2年(971年)長兄の伊尹は摂政太政大臣に昇る。翌天禄3年(972年)、兼通はようやく権中納言に進んだ。
天禄3年(972年)、長兄の伊尹が危篤になると、10月21日に辞意を示す上表を行った。それを知った兼通と兼家は次の日には早速天皇の御前で後任を巡って口論を始める有様であった(『済時記』)。23日には伊尹の摂政辞任だけは認められた。こうした状況の中で兼通はこれに乗ぜんと参内した。円融天皇は鬼の間に居たが、平素から兼通を疎んじており、その姿を見ると別の間へ移ろうとした。兼通が「奏上したきことがあります」と言うと、天皇は座に復し、兼通は書を奉った。その手跡は天皇が幼い頃に亡くなった母后・安子のものであった。かつて兼通は先に弟の兼家に摂関を奪われることを恐れ、存命中だった妹の安子から「将来、摂関たることあれば、必ず兄弟の順序に従いなさい」との書付を受け、兼通はこの書を懐に入れて肌身離さず持っていたという。それを見た天皇は亡き母の遺命に従うこととした〔『大鏡』巻第三巻38段〕〔倉本一宏は『親信卿記』天禄3年11月26日条の兼通が内大臣就任の背景に「前宮遺命」があったとする記述より「安子の遺命」は存在したものの、長兄の伊尹の摂関就任よりも以前に死去した安子が『大鏡』に書かれたような摂関の地位について意見を述べたとは考えにくいとする。実際の内容は自分を庇護してきた「兄」兼通への将来に関するものだったのではないかと推定している。〕〔なお、『親信卿記』によれは、天皇の本心は藤原頼忠を内覧として親政を行う意向があったと記されており、実際に兼通が天皇に拝謁する前の段階では頼忠に内覧就任の意向を尋ねたという。〕。まず、兼通に10月27日に内覧を許し、伊尹の没後に権中納言から一挙に内大臣に引き上げて関白宣下した(なお、内覧から関白宣下を受けた時期については、この天禄3年説と2年後の天延2年(974年)説がある)。藤原済時大納言を経ないで兼通が内大臣に就任したことやこの人事を行った円融天皇、更にはこれを止めなかった藤原頼忠を強く非難している(『済時記』)。天延2年(974年)には頼忠に代わって藤氏長者となり正二位に進め、太政大臣に任ずる。同3年(975年従一位に叙した。貞元元年(976年内裏で火事があり、天皇は兼通の堀川第に移り、時の人はこれを「今内裏」と呼んだ。
兼通と兼家は非常に不仲で、兼通の関白就任後兼家の昇進はまったく止められてしまい、異母弟の為光を筆頭大納言として兼家の上位に就ける程であった。さらに、兼通が娘の媓子を円融天皇の後宮女御として入れ、次いで中宮としていた一方で、兼家は冷泉上皇の女御であった長女超子に次いで、次女の詮子をも円融天皇に入内させようとしていたところ、兼通はこれを激しく非難して妨害した。すると、詮子を入内させないのは、兼家が超子が生んだ子に皇位継承が行われるのを望んでいるのではないかと円融天皇は疑い、兼家を遠ざけ兼通と結ぶようになっていった〔兼通の没後、円融上皇が兼通が地獄に落ちる夢を見たと述べて、彼を救うために『法華経』の写経を行ったという(『小右記』永祚元年12月26日条)。〕。超子が冷泉天皇皇子の居貞親王(後の三条天皇)を生むと、兼通はますます不機嫌になり、円融天皇に讒言する有様であった。
また、兼家の東三条第は堀川第に隣接していたが、東三条第に客が来ると兼通はこれを罵り、人々は恐れて夜に忍んで東三条第を訪ねるようになった。
兼通は右大臣藤原頼忠と仲がよく、以前藤氏長者を譲って貰ったこともあって、自分の後継にと考えていた。一方、左大臣源兼明太政官の筆頭として、兼通と伍する政治力を有していた(太政大臣は太政官の実務に携われない慣例であり、左大臣が事実上の最高責任者であった)。このため兼通は頼忠を太政官の最高責任者である一上に任じて兼明の政治的権限を剥奪した上で、兼明を親王に復帰させ(親王は政務に携われない慣例だった)、空いた左大臣に頼忠を任じた。
貞元2年(977年)10月、兼通は重い病に伏した。家人が東三条第から車がやって来ると報じた。兼家が見舞いに来るのかと感じ入った兼通は、周囲を片づけさせて来訪を待った。だが、兼家の車は門前を通過して内裏へ行ってしまった。兼家は兼通がもう臨終だと思い、早速天皇に後任を奏請するつもりだったのである。これを知った兼通は激怒して起き上がり、四人に支えられながら病をおして参内した。ちょうど、兼家が天皇に奏請していた最中に兼通が現れ、驚愕した兼家は他所へ逃げてしまった。
兼通は最後の除目を行うと宣言し、左大臣頼忠をもって自分の後任の関白とした。その上で、兼家の右近衛大将の職を解き治部卿へ降格してしまった。天皇もその気魄に逆らうことができなかった。兼通は居並ぶ公卿たちを顧みて、右近衛大将を欲する者はないかと問う。公卿たちは言葉も出なかったが、中納言藤原済時が進み出て求め、右近衛大将に任じられた。〔『大鏡』第三巻46段〕
それから程無く、兼通は薨去した。享年53。正一位を贈られ、忠義公と諡された。
兼家は暫く不遇だったが、やがて政界に復帰して権力を握り、懐仁親王(一条天皇・円融天皇と詮子の子)を即位させて外戚となり摂政に任じられ権勢をふるった。結局、兼家の家系が摂関を独占して最も栄えることになる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「藤原兼通」の詳細全文を読む




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