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大政所 : ミニ英和和英辞書
大政所[おおまんどころ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

大政 : [たいせい]
 【名詞】 1. sovereign power 2. the reins of government
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 
政所 : [まんどころ]
 【名詞】 1. (Heian or Kamakura era) government office 2. titled lady
: [ところ, どころ]
 (suf) place

大政所 : ウィキペディア日本語版
大政所[おおまんどころ]

大政所(おおまんどころ、永正10年〔(1513年) - 天正20年7月22日1592年8月29日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。名は(なか)とも伝えられる。法名は天瑞院春岩。豊臣秀吉秀長日秀朝日姫の生母である。従一位
大政所は本来「大北政所」の略で、摂政関白職にある者の母親に対して天皇宣旨によって贈られる尊称である。彼女について正しくは天瑞院と呼ぶべきであるが、現在ではこの大政所の称で呼ばれることが主である。
== 生涯 ==
永正10年〔永正13年(1516年)を生年とする説もある。〕(1513年)、尾張国愛知郡御器所村〔『太閤素生記』による。〕に生まれたと伝わる。異説に美濃の鍛冶関兼貞の娘とも云う。
妹に栄松院(小出秀政の正室)、姉妹に松雲院(福島正則の母)、従姉妹に伊都(加藤清正の母)がいる。
織田家足軽あるいは雑兵(雇い兵)だった木下弥右衛門のもとに嫁ぎ、日秀と秀吉を生む。『太閤素生記』によると、天文12年1月2日1543年)に夫が亡くなった後、織田信秀に仕えた同朋衆と伝わる竹阿弥(筑阿弥とも)と再婚し、その間に秀長と朝日姫をもうけたといわれる〔『太閤記』による。小和田哲男の『豊臣秀吉』(中公新書)によると、秀長と朝日姫の実父は弥右衛門と述べている。〕。
秀吉が長浜城主となって以来、仲はおね(北政所)らと一緒に暮らし、秀吉は終生これらを身近において大事にした。嫁姑は実の親子のように親密な関係にあったと伝わる。本能寺の変の後、同城が明智方の将阿閉貞征に落された時には、二人は一緒に伊吹山麓大吉寺に逃れた。大坂城築城と共に大坂に移り、天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白任官にともない、仲は破格の従一位に叙された。これ以後仲は大政所と呼ばれるようになる。
天正14年(1586年)5月、大和群山城の秀長を訪ねて、しばしば奈良に来て、高野山や春日神社を参詣した。25日、霍乱で体調不良となった際には興福寺の祈祷で回復したと云う。
同年9月には、妹の朝日姫を正室として岡崎城に下しても一向に上洛の気配を見せない徳川家康に業を煮やした秀吉が、今度は大政所をその見舞いとして岡崎に送った。関白の母子が共に人質として送られてきたとあってはさすがの家康も上洛に応じざるを得ず、ついに重い腰を上げる。秀吉に拝謁することは家康が秀吉に臣従することを意味したが、この間、国許の岡崎では家康の重臣・本多重次が大政所の滞在する館の周囲に柴を積み上げ、事ある際にはいつでも火をつけられる準備をしていた。家康の秀吉への謁見は平穏裡に終わり、これで大政所は約1か月で大坂城に戻ることができた。
天正15年(1587年)9月に聚楽第が完成したので、13日に太閤と共に居を移したが、しばらくして大坂に帰還。天正16年6月8日にも再び病気となったが、祈祷で回復した。この時に大徳寺に建てられた寿塔(後には仲の納骨堂となる)は、明治期には荒れ果てて同寺内の瑞光院に移され、現在は龍翔寺にあるが、寿塔覆堂の部分は富豪原富太郎が買い取って横浜三溪園に移転している。
以後もずっと病気がちであり、天正18年(1590年)、朝日姫が正月に亡くなって仲の病がまた重くなると、仲は紫野の地に一寺を建立して予め墳墓の地を用意しておいて欲しいと秀吉に頼んだ。秀吉はその意思に従ってすぐに大徳寺に庵を設けようと玉仲宗琇に話し、当時建設中だった黄梅院を母の菩提寺にしようとしたが、玉仲はこれは小早川隆景檀越となって造営しているものであり、それを奪うのは道理に適わないと説得し、別に巨刹を建設することになった。秀吉は、敷地を総見院の横に確保し、秀長に木材を確保させ、秀保に奉行をさせた。これが天正18年の8月に完成するが、この頃には仲は快復しており、秀吉は大変喜んで、二人して落慶の儀式を行い、金鳳山天瑞寺と名付けて、朱印状にて寺領300石をあてがった。
天正19年(1591年)正月に秀長に先立たれた後に文禄・慶長の役が始まると、仲は名護屋城の秀吉の身を案じて渡海をやめるように懇願したので、秀吉もそれをむげにできずに周囲の勧めもあって1年延期を発表した。しかし天正20年(1592年)7月になると、仲はいよいよ死の床についた。孫の関白豊臣秀次は太閤秀吉を落胆させまいと報告を躊躇い、各種祈祷を行わせたがもはや改善しなかった。秀次がついに重篤であると報告したので秀吉は慌てて上洛したが、その名護屋を出立した日(7月22日)に仲は聚楽第で死去した。享年80(もしくは77)。
大坂に戻った秀吉は、既に亡くなったと死を知らされ、あまりの衝撃にその場で卒倒したという。秀吉は追善供養のために、8月4日、聖護院門跡道澄法親王を名代として中村一氏小出秀政を付けて高野山に登らせ、剃髪寺(後の青巌寺〔豊臣秀次が蟄居を命じられた寺で、秀次はこの秀吉が母の追善供養のために建立した寺の一室でまさに切腹して果てた。〕だが万延元年に焼失)を創立して木食応其を開基とした。また高野山には1万石が寄進された。秀吉は8月6日に大徳寺で法要を行い、翌日、蓮台野で荼毘に付した。後陽成天皇は、勅使を遣わして仲に准三后を追号した。
墓所は大徳寺内天瑞寺、高野山青巌寺、山科本国寺にある。遺骨は天瑞寺の寿塔に収められていた。また秀吉は三回忌に東寺の大塔と四天王寺(大坂の陣で焼失)を再建した。山科本国寺の墓地には、最初の夫の弥右衛門、婿の三好吉房、孫の豊臣秀保と合祀された供養塔がある。なお大徳寺本坊に肖像画が残るほか、木像、「玉仲遺文」に大政所の画像の賛があり、もう一軸肖像画があったとみられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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