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マーク・ルーイン : ミニ英和和英辞書
マーク・ルーイン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

マーク・ルーイン : ウィキペディア日本語版
マーク・ルーイン[ちょうおん]

マーク・ルーインMark Lewin1937年3月16日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーニューヨーク州バッファロー出身。
日本での異名は毒蛇。極太の腕で相手を絞め上げる得意技のスリーパー・ホールドは、「アナコンダ殺法」とも呼ばれた。
== 来歴 ==
地元バッファローのプロモーターであるエド・ドン・ジョージとプロレスラーのダニー・マクシェインのトレーニングを受け、1953年に16歳でデビュー。ルーイン兄弟(ドン・ルーイン、テッド・ルーイン)の末弟として売り出され、1956年3月にはメリーランドにてドンとのコンビでレイ・スティーブンス&ドン・ファーゴからアメリカン・タッグ王座を奪取。ジョージアでは1957年2月8日にインターナショナル・タッグ王座も獲得した。
その後、ニューヨークのキャピトル・レスリング・コーポレーション(現在のWWEの前身団体)にてドン・カーティスのタッグパートナーを務め、1958年7月にディック・ザ・ブルーザー&ハンス・シュミットを破り、ノースイースト版のNWA・USタッグ王座(後のWWWF・USタッグ王座)の初代チャンピオン・チームとなる。9月にグラハム兄弟(ジェリー&エディ・グラハム)に敗れるが12月に奪還し、同王座には2度に渡って戴冠した〔。同地区には1960年代初頭まで参戦し、1962年にはバディ・ロジャースNWA世界ヘビー級王座に再三挑戦している。
以降もドン・カーティスと組んで活躍し、1963年には南部フロリダ地区で1月24日にザ・カンガルーズアル・コステロ&ロイ・ヘファーナン)、11月21日にジ・アサシンズを破り、同地区認定のNWA世界タッグ王座にも2度戴冠している。フロリダではボブ・オートン&キラー・カール・コックス、ボブ・オートン&グレート・マレンコスカル・マーフィー&ブルート・バーナードなどのチームとも抗争した。
カーティスとのタッグチーム解消後はサンフランシスコ地区を経てオーストラリアジム・バーネット主宰のワールド・チャンピオンシップ・レスリング)に遠征し、1966年7月1日にドミニク・デヌーチと組んでラリー・ヘニング&ハーリー・レイスから豪州版のIWA世界タッグ王座を奪取。同月9日にはメルボルンにてトール・タナカを破りIWA世界ヘビー級王座も獲得している。帰国後の10月28日にはロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムにてルー・テーズに勝利、WWA世界ヘビー級王者となった。さらに、12月10日にはペドロ・モラレスとのコンビでWWA世界タッグ王座にも戴冠し、二冠王となっている。
1967年韓国ソウルキム・イルに敗れWWA世界ヘビー級王座を失うが〔、その後も北米と南半球を股にかけて活躍。WWAがNWAに吸収されてからのロサンゼルスでは、後継タイトルであるNWAアメリカス・ヘビー級王座をマイク・デビアスやフレッド・ブラッシーと争った。オーストラリアでは1967年10月13日にシドニーキング・カーティス・イヤウケアを破り、IWA世界ヘビー級王座を再び獲得〔。同世界タッグ王座も再三獲得し、1971年は3月にキラー・コワルスキーと組んでジ・アウトローズダスティ・ローデス&ディック・マードック)から、6月にはイヤウケアをパートナーにタイガー・ジェット・シン&ミスター・フジから、それぞれ奪取している〔。
1970年代初頭はカナダバンクーバー地区にも進出、1970年2月9日にムーンドッグ・ロニー・メインを破り、パシフィック・コースト・ヘビー級王座の初代王者となる。1971年11月29日にはスティーブン・リトル・ベアと組んでジン・キニスキー&ボブ・ブラウンからカナディアン・タッグ王座を奪取した。1972年からは古巣のフロリダ地区に参戦し、1973年1月9日にバディ・コルトを破り南部ヘビー級王座を獲得。デトロイトではザ・シークと抗争を繰り広げ、1975年9月27日にシークからUSヘビー級王座を奪取している。
この時期までは主にベビーフェイスのポジションにいたが、1970年代後半からは狂人系のヒールとして活動し、"マニアック" マーク・ルーイン"Maniac" Mark Lewin)または "マッド" マーク・ルーイン"Mad" Mark Lewin)を名乗るようになる。フリッツ・フォン・エリックの主宰するテキサスダラス地区では1979年から1980年にかけて、ダスティ・ローデス、ブルーザー・ブロディスーパースター・ビリー・グラハムらを下しテキサス・ブラスナックル王座を通算5回獲得した。また、1979年12月10日にデビッド・フォン・エリック、1980年5月25日にジノ・ヘルナンデスを破り、テキサス・ヘビー級王座も手中にしている。
南半球での活動も続け、1981年ニュージーランドにてジョー・ルダックと英連邦ヘビー級王座を、1982年にはスティーブ・リッカードとのコンビでバロン・フォン・クラップ&キング・カマタ、カマタ&オックス・ベーカーなどのチームとオーストラレージアン・タッグ王座を争った(南半球でのルーインは1960年代の豪州IWA時代から一貫してベビーフェイスであり、ニュージーランドでは同地のプロモーター兼エースのリッカードとタッグを組んでいた)。
1983年よりフロリダ地区でパープル・ヘイズThe Purple Haze)と名乗り、ケビン・サリバンと怪奇派のユニットを結成。同年11月24日にはノースカロライナジム・クロケット・プロモーションズが開催した『スターケード』の第1回大会 "A Flair for The Gold" にもサリバンとのコンビで出場している。以降1986年までフロリダを主戦場に、ダスティ・ローデス、バリー・ウインダムアンジェロ・モスカブラックジャック・マリガンワフー・マクダニエルらと抗争。1986年2月14日にオーランドで開催された "NWA Battle of The Belts II" では、サリバン&マハ・シンとのトリオでマリガン&ロード・ウォリアーズと6人タッグマッチで対戦した。
1990年代に入ってもインディー団体のリングに単発的に上がり、1998年に引退した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マーク・ルーイン」の詳細全文を読む




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