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金玉均 : ミニ英和和英辞書
金玉均[きむ おっきゅん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きん]
  1. (n,n-suf) (1) gold 2. (2) gold general (shogi) (abbr) 
金玉 : [きんたま, きんぎょく]
 (n) (col) testicles
: [たま, だま, ぎょく]
  1. (n,n-suf) ball 2. sphere 3. coin

金玉均 : ウィキペディア日本語版
金玉均[きむ おっきゅん]

金 玉均(キム・オッキュン、、きん ぎょくきん1851年2月23日旧暦1月23日) - 1894年3月28日)は、李氏朝鮮後期の政治家。李朝時代後期の開明派として知られる。は伯温(ペゴン、)、に古愚(コウ、)。本貫は安東(新安東金氏)。朝鮮の近代化を目指し、日本・中国と同盟し3国でアジアの衰運を挽回するべきだという「三和主義」を唱えた〔松岡正剛の千夜千冊、1168夜、2006年12月30日〕。
== 略歴 ==
忠清南道公州に生まれる。1872年科挙文科に合格。朴珪寿呉慶錫らの影響で開化思想を抱いた。1882年2月から7月まで日本に遊学し、福澤諭吉の支援を受け、慶應義塾興亜会に寄食する。留学生派遣や朝鮮で初めての新聞である『漢城旬報』の発行に協力。
日本の明治維新を模範とした清朝からの独立、朝鮮の近代化を目指した。1883年には借款交渉のため日本へ渡り、翌1884年4月に帰国。清がベトナムを巡ってフランス清仏戦争を開始したのを好機と見て、12月には日本公使・竹添進一郎の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こす。事件は清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終了した。井上角五郎〔3. 京城小事変並ニ栗野書記官同地ヘ出張/3 明治18年12月27日から〔明治19年〕1月20日〕らの助けで日本に亡命する。日本亡命中には岩田秋作と名乗っていた〔 アジア歴史資料センター Ref.B03030200700 pp51のうちp.9より「金玉均は岩田秋作、劉岳樓は山田惟一、張殷奎は田中虎造と称して、各々立派な戸籍を有するそうである。もっともその戸籍は長崎に於いて得たものであると云う。」〕。



日本では外交上の負担として考えていた当時日本政府の立場から東京札幌小笠原諸島などを転々とした後、上海に渡ったが1894年3月28日、その上海で閔妃の刺客である洪鐘宇(ホン・ジョンウ)〔今日の歴史(2月22日) 聯合ニュース 2009/02/22〕の前にピストルで暗殺された。金玉均の遺体は清国軍艦咸靖号で本国朝鮮に運ばれ凌遅刑に処された。その遺体はバラバラにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された〔写真および資料はアジア歴史資料センター Ref.B03030202500で見ることができる。晒された首には「大逆不道玉均」と見える説明が添えられている(晒し首にされる金玉均(朝鮮)の写真)。〕。
諭吉は上海で暗殺された金玉均の供養のために法名をつけることを真浄寺の住職である寺田福寿に依頼し、福寿はただちに諭吉の要請に応え、「古筠院釈温香」という法名を付け、法要は東京朝鮮公使付通官山崎英夫朴泳孝などを諭吉邸に招いて営んだ。遺髪と衣服の一部は金玉均の護衛であった日本人和田延次郎が密かに日本に持ち帰り、宮崎滔天たちによって浅草本願寺で葬儀が営まれた。甲斐軍治によっても遺髪、衣服の一部が日本に持ち込まれ、東京文京区の真浄寺にその墓所がある。現在、同じ場所に甲斐の墓もある。さらに犬養毅頭山満らの支援で東京の青山霊園の外人墓地に墓が建てられた。墓碑には朴泳孝の撰文、興宣大院君の孫である李埈鎔の書で以下が刻まれている。
金玉均の妻子については処刑された〔岩波書店『福澤諭吉全集』第10巻「朝鮮独立党の処刑」では「金玉均、徐載弼、徐光範の父母妻子は2月2日を以て南大門に絞罪に処せらる。」とある。〕とも逃亡したとも噂され行方不明であったが、日本は探偵を送ってその捜索を始めた。1894年12月、当時東学党の乱(甲午農民戦争)を鎮圧中の日本軍が忠清道沃川近傍で金玉均の妻と女子を偶然発見して保護した。その時の2人は実に憐れむべき姿だったという。後に京城に護送して朴泳孝、徐光範が預かることとなったが、妻子は金玉均が暗殺されていたことも知らなかった。この資料はアジア歴史資料センターレファレンスコード:B03030202500『金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/4 明治27年4月16日から明治27年12月21日』の発第130号 『朴泳孝復爵甲申明治17年罪犯赦免金玉均妻女発見ノ件』で見ることができる。
著作には『治路略論』、『甲申日録』がある他、書家としての才能も評価されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「金玉均」の詳細全文を読む




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