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閔妃 : ウィキペディア日本語版
閔妃[みんぴ]

閔妃(びんひ、みんひ、1851年10月19日 - 1895年10月8日)は、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃。明成皇后〔死後、大韓帝国が成立すると皇后に追封された。「明成皇后」の呼称は追封された諡号に由来する。〕(めいせいこうごう、ミョンソンファンフ)、朝鮮王后(閔氏)とも呼ばれる。本貫驪興閔氏。尊号は孝慈元聖正化合天〔 GK17289_00I0079 光武六年三月七日 韓国官報2141号 宮廷録事 〕、諡号は孝慈元聖正化合天明成太皇后〔高宗太皇帝明成太皇后祔廟主監儀軌 請求記号2-2218 1921年 〕。
国王の正妃として強い権力を持ったが、縁故主義汚職、そして義父興宣大院君との20年以上にわたる権力闘争により政局は混乱し、乙未事変で日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された〔『国史大辞典』11、p1116〕。
そもそも本来「閔妃」とは「閔氏の王妃」という意味で固有名詞ではないが、近代朝鮮史で「閔妃」と言えばこの高宗の妃を一般に意味する。
== 生涯 ==
閔致禄の娘として京畿道驪州郡近東面蟾楽里に生まれる。幼名は玆暎(チャヨン、)〔『明成皇后と大韓帝国』18~20頁〕。同治5年(1866年)、15歳の時に王の実父である興宣大院君(以下、大院君)の夫人閔氏の推挙で王宮に入った。閔玆暎が王妃に選ばれたのは、それまで60年間にわたって王の外戚として権勢を誇った安東金氏の政治的影響力を削ぐための人選だったとされるが、その方策は裏目に出た。
高宗は政治と妃に全く関心を持たず、関心が深いのは専ら多数の宮女や妓生達を相手にした漁色と酒といった放蕩三昧のみという愚昧な人物であった〔イザベラ・バード著、時岡敬子訳『朝鮮紀行』における記述(p.441-)「王家内部は分裂し、国王は心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。そしてその傾向は王妃の影響力がつよまって以来ますます激しくなっていた。」からもうかがえる。高宗に関しての記述はフレデリック・アーサー・マッケンジー著、渡部学訳注の『朝鮮の悲劇』(平凡社)を参照。 〕。高宗が愛人である李尚宮との間に長子である完和君をもうけると、祖父の大院君は喜び、完和君を王世子(世継ぎ)にしようとした。閔妃は急いで自身の子を出産し、その子李坧(純宗)を王世子とするため、宗主国であるに側近を派遣して賄賂を贈り、李坧を嫡子として承認(冊封)してもらうことに成功した〔崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』pp236-247〕。
世継ぎ問題など、大院君と権力争いをしていた閔妃は高宗が成人して親政をとるようになると、同治12年(1873年)、大院君追放の指揮を裏で執り行い、大院君とその腹心の部下たちを失脚させた。そして自分の一族(閔氏)を高官に取り立て、政治の実権を握った。大院君はその後京畿道楊州に隠居させられたが、閔妃の存在を国家存続を脅かすものとして政局復帰、閔妃追放の運動を始め、それが朝鮮末期の政局混乱の一因にもなった。閔妃と大院君の権力闘争は敵対者を暗殺するなど熾烈なものであった。閔妃は「まず閔妃一族の栄達をはかる為に、国家有為の人物よりも、大院君排除に必要な策士を網羅し、大院君が生命をかけて撤廃した書院や両班の特権を復活させるため彼らを煽動し、儒者にへつらい、大院君系の人を根こそぎ追放、流刑、死刑にし、処世の改革を破壊、復元(金熙明『興宣大院君と閔妃』)」したとされる。
攘夷政策をとった大院君が失脚した当初、閔妃は開国路線をとり、日本と日朝修好条規(江華島条約)を締結するなど積極的な開化政策を行った。日本から顧問を呼び寄せ、軍隊の近代化に着手したが、従来の軍隊(旧式軍隊)が放置され、また賃金未払い問題なども発生し、新式軍隊に対する不満がたまっていった。そこに開化政策に不満を持つ大院君等の勢力が合わさり、光緒8年(1882年)、朝鮮の旧式軍隊が閔妃暗殺を目論んだ(壬午事変)。その際多くの閔妃派要人や日本人が殺され、日本大使館は焼き討ちにされたが、いち早く事件を察知した閔妃は、侍女を自らの身替りとして王宮を脱出し、当時朝鮮国内に駐屯していた袁世凱の力を借りて窮地を脱した。このクーデターを指揮していたとして、大院君は清に連行され天津に幽閉された。高宗の嘆願・朝貢も効果なく、幽閉は3年間続き、帰国がかなったのは駐箚朝鮮総理交渉通商事宜の袁世凱と共にであった。
この当時の閔妃は巫堂ノリという呪術儀式に熱中し、国庫の6倍以上にあたる金額の国費を布施により浪費している。これは法外な額であるため、宮廷の役人は民衆から搾取しては競って閔妃に賄賂を贈っていた〔。また庶民が苦しい生活をしている中、毎晩遅くまで、俳優や歌手を宮中に招いて遊興しており、起床はいつも午後で、そのため宮中の空気は「混濁腐敗」していたとも言われる〔片野次雄『李朝滅亡』〕。
政敵の大院君が清によって天津に幽閉されると、閔妃は親日的な政策から次第に清に頼る事大主義に路線変更していった。そのような状況を見た親日的な開化派の金玉均らは、閔妃を追放しない限り朝鮮の近代化は実現しないとして、光緒10年(1884年)12月に甲申政変を起こした。それにより一時期政権を奪われるが、袁世凱率いる清軍の力によって政権を取り戻し、開化派の政権は3日で崩壊した(1894年、金玉均は閔妃の刺客、洪鐘宇により上海で暗殺された)。
光緒11年(1885年)になると、ロシア南下政策を警戒しだしたイギリスなどを牽制するために親露政策もとりはじめる。光緒20年(1894年)に甲午農民戦争(東学党の乱)が起きると清軍と日本軍の介入を招き、日清戦争の原因と戦場になった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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