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辛ピ : ミニ英和和英辞書
辛ピ[しん ぴ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しん]
 【名詞】 1. 8th in rank 2. eighth sign of the Chinese calendar

辛ピ : ウィキペディア日本語版
辛ピ[しん ぴ]

(しん ぴ、生没年不詳)は、中国後漢から三国時代の政治家。に仕えた。佐治豫州頴川郡陽翟県(河南省禹州市)の人。辛評の弟。子に辛敞、羊耽の妻(辛憲英)。孫に羊琇。『三国志』魏志に伝がある。
== 生涯 ==
先祖は、建武年間に隴西郡から東方に移住してきた一族だという。若い頃は陳羣杜襲趙儼と並んで名が知られていた(「趙儼伝」)。兄は袁紹の重臣となり、辛も兄に付いて袁紹に従っていた。曹操司空になると召し寄せられたが、応じることができなかった。
袁紹の死後は袁譚に仕えていた。袁譚は袁紹の跡を継いだ袁尚と争った末に、弱体化したところを曹操に攻められ窮地に陥ったため、辛を和睦の使者として、曹操の元に派遣した。この決定については使者の人選も含めて、郭図の進言が大きかったという(『英雄記』)。
曹操はこの時、荊州を討つために西平に駐屯していたが、袁譚の意向を知らされ、大きく喜んだという。ところが数日すると、曹操は心変わりし、荊州攻撃を続行、袁譚と袁尚を争わせ共倒れにさせようと謀った。辛は宴席で曹操の様子が変わったのを見て取り、郭嘉に相談を持ちかけた。郭嘉の取り成しで曹操との会談の機会を得た辛は、袁譚と結び袁尚を討つことの利益を堂々と説いた。曹操は辛の意見に納得した上で、袁譚との和睦に応じ黎陽に滞在した。
また、曹操の攻略にも従った。辛は以前、袁尚の下から自身の家族を連れ出すことには成功していたが、兄の家族を捕らえられてしまっていた(「袁紹伝」が引く『先賢行状』)。このときに袁尚の部将として鄴を守っていた審配は、袁氏衰退の元凶であるとして、兄辛評の家族を皆殺しにしたという(「袁紹伝」が引く『先賢行状』)。鄴の落城後、辛は兄の家族を救おうとしたが殺害された後であったため、捕虜となった審配の頭を鞭打ち、お互いに罵り合った。さらに審配を助命しようとする曹操に対して、断じて処刑するように号泣しながら求めたという。審配にも再仕官の意思がなかったために処刑となった(「袁紹伝」が引く『先賢行状』)。
鄴攻略後、曹操により辛は議郎に任命された。
曹操が都護の曹洪に命じて下弁を攻略させたとき、辛と曹休に曹洪の輔佐をさせた。曹操は曹洪が女好きで金銭に執着する性格なのを心配し、辛と曹休に前漢高祖の事例を引いて、その責任の重さを言い含めたという。軍が帰還すると、丞相長吏に任じられた。
曹丕(文帝)とは親しく、太子となることが決まったときは、辛のうなじを抱いて喜んだという。辛はこの話を娘の憲英にしたところ、憲英はかえって魏の行く末を心配する発言をしたという(『晋書』「列女伝」)。
後漢から魏への禅譲に協力し(「文帝紀」が引く『漢紀』)、曹丕が帝位に就くと侍中に昇進、関内侯の爵位を得た。正朔の議論があった時、辛は意見を具申し、文帝に採用された。
文帝が、冀州の兵士10万戸を河南に移住させようとした時は、民が蝗の害で餓えていた時であったので、群臣達には反対する者が多かった。皆意見を言い出せない中で、辛は率先して意見を述べ強く諫言した。文帝は耳を貸そうとしなかったものの、移住させる兵士を半数に留めた。また、文帝は狩猟を好み、雉打ちが好きであったが、辛はこれも強く諌めた。このため文帝が狩猟に出ることは、稀になったという。
文帝が曹真に命じて、江陵朱然を攻撃させた時、辛はその軍師として従軍した。帰還後、広平亭侯に封じられた。文帝は征伐の軍を起こそうと考えたが、辛はこれに反対し、しばらく民衆を休養させるべきだと述べた。文帝は結局呉征伐の軍を起こしたが、長江まで行って帰還することになった。
曹叡(明帝)が即位すると、頴郷侯に爵位が進み、300戸を得た。この頃、明帝の側近である劉放孫資が政治を壟断しており、大臣の多くが彼らと誼を通じていたが、辛は彼らとの不仲を続け、子の辛敞が諌めたにも関わらず、その態度を改めなかった。あるとき、畢軌が王思の後任として辛を推挙したところ、劉放と孫資は辛の誠実さは評価しつつも、強情で妥協性がないことを理由に、それに賛同しなかった。明帝は辛を衛尉に任じた。その後も辛は、明帝の宮殿造営により、民衆が疲弊していることを強く諫言した。
(蜀漢)の北伐張郃が戦死したとき、明帝はその死を強く愛惜し、司空の陳羣もこれに同調する意見を述べた。辛は、弱気な発言をすべきではないと思い、陳羣の意見に反対し、発言を撤回させたという(『魏略』)。
234年諸葛亮が謂南に進撃してきた(五丈原の戦い)。大将軍司馬懿は、以前より度々蜀との交戦を願い出ていたが、今回は軍を押さえきれない様子があったため、明帝は辛を大将軍軍師・使持節に任命して、出撃に逸る諸将たちを押しとどめさせようと派遣した。辛が派遣されると、全軍は粛然となり、主将の司馬懿以下、諸将はみな辛の指示に従ったという。諸葛亮が亡くなり蜀軍が撤退すると、また衛尉に復職した。
死去し、粛侯とされた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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