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辛憲英 : ミニ英和和英辞書
辛憲英[しん けんえい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しん]
 【名詞】 1. 8th in rank 2. eighth sign of the Chinese calendar

辛憲英 : ウィキペディア日本語版
辛憲英[しん けんえい]
辛 憲英(しん けんえい、191年 - 269年)は、三国時代の人物。女性。の政治家である辛毗の娘で辛敞の姉、羊耽の妻、羊琇の母、羊祜の叔母。『三国志』辛毗伝裴松之注釈にある外孫夏侯湛が著作した伝記と『晋書』「列女伝」に記録がある。
== 生涯 ==
『晋書』には隴西郡の人とある。
204年、父は袁紹の子である袁譚に仕えに住んでいた。当時、官渡の戦いで敗北し勢力を減退させた袁紹が病死し、袁譚と袁尚との間の家督争いで内紛が起きており、袁尚の部下で父を恨んでいた審配に捕らわれそうになるが家族ともども脱出した。
217年、父が仕えていた曹丕(文帝)が太子に任命され曹丕が喜んでいたことを聞き、父に対し「曹丕は魏を継ぐ立場で普通なら憂慮しなければならない立場であるのに喜ぶとは、魏はこの君主で栄えていくのだろうか?」と言い、ためいきをついたという。
249年曹爽曹羲達兄弟が天子(曹芳)のお供をして出かけたのを見計らった司馬懿が城門を閉じる事件が起きた。曹爽の参軍であった弟の辛敞は、曹爽の司馬の魯芝に共に曹爽の元に駆けつけるよう勧められたが、判断に迷い姉に相談した。憲英は「司馬懿がクーデターを起こしたのなら、これは成功させるであろうから曹爽らは処刑されるだろう。ただし、あなたは曹爽配下なんですから城内にいるのであれば主君のために義理を果たしたとはいえません。城から出て曹爽の元へ行くべきです」と告げ、辛敞は曹爽の元へ走った。曹爽らは処刑されたものの、辛敞は主君に忠実な人物として処刑は免れた。
262年鍾会が鎮西将軍・仮節都督関中諸軍事に任命された。憲英は甥の羊祜に鍾会が鎮西将軍に任命された理由を聞き、それが征討だと聞くと「鍾会は独断で物事を判断する人だから、野心を考えていないか心配です」と言った。羊祜は周囲の者に聞かれなかったかと懸念し「叔母さん、喋りすぎはいけません」と注意したという。
263年、鍾会の要請で羊琇が鍾会の参軍として蜀漢征討戦に参加し、鍾会が起こした謀反で混乱し多数の将兵が殺されるなか、無事に魏へ戻ってきたという。
269年、数え79歳で死去した。
『晋書』列女伝において憲英は質素倹約を旨とし、羊祜から贈られた華美な服を裏返しにしたという。だが『太平御覧』巻707に引く『孝子集』および巻815に引く『夏侯孝若集』では憲英が裏返しにする服を贈った者は従外孫の胡母楊となっている。また同書巻815には、羊琇が錦で縁取った肩掛けを贈った時は着用しなかったと記録がある。盧弼著の『三国志集解』では『太平御覧』の記述をもとにし、その上で羊祜が清廉な人物でいつも質素な衣服を着ていたこと、羊琇は豪奢な性分で贅沢な生活を好んだことを考慮して、憲英に華美な服を贈った者は甥の羊祜ではなく息子の羊琇が正しいと指摘する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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