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曹丕 : ウィキペディア日本語版
曹丕[そう ひ]

曹 丕(そう ひ)は、三国時代の初代皇帝。父曹操の勢力を受け継ぎ、後漢献帝から禅譲を受けて王朝を開いた。著書に『典論』がある。
==生涯==
曹操と卞氏(武宣皇后)との長子として生まれ、8歳で巧みに文章を書き、騎射剣術を得意とした。初めは庶子(実質的には三男)の一人として、わずか11歳で父の軍中に従軍していた。建安2年(197年)に曹操の正室の丁氏が養子として育て、嫡男として扱われていた異母長兄の曹昂(生母は劉氏)が戦死すると、これがきっかけで丁氏が曹操と離別する。次兄の曹鑠も程なく病死し、一介の側室でしかなかった生母の卞氏が曹操の正室として迎えられた。以後、曹丕は曹操の嫡子として扱われるようになる。やがて曹丕は文武両道の素質を持った人物に成長することとなった。『三国志』魏書によれば、曹丕は茂才に推挙されたが、出仕しなかった。
曹操の下で五官中郎将として副丞相となり、曹操の不在を守るようになった。
建安22年(217年)に曹操から太子に正式に指名される。通説ではこの時に弟の曹植と激しく後継争いをしたと言われるが、実際にそうだったかは怪しまれる。むしろ、兄弟の側近たちによる権力闘争であったという方が正確であろう。建安24年(219年)には、曹操不在時に魏諷の反乱未遂計画を鎮圧した。
建安25年(220年)に父が逝去すると、魏王に即位し丞相職を受け継ぐ。王位についたばかりの頃、私兵四千家あまりを統率して孟達が魏に帰伏し、大いに喜び孟達を厚遇した。当時、大勢の臣下のうちで、孟達への待遇があまりに度はずれであり、また地方の鎮めの任を任すべきでないと考えるものがあった。これを耳にすると、「私が彼の異心なきことを保証する。これも例えてみれば、蓬の茎で作った矢で蓬の原を射るようなものだ(毒を以て毒を制すの意)」といった。
その後、献帝に禅譲を迫って皇帝の座に即いた。ただし、表向きは家臣達から禅譲するように上奏し、また献帝から禅譲を申し出たのを曹丕は辞退し、家臣達に重ねて禅譲を促されるという形を取った。18回辞退したのちに、初めて即位した。ここで後漢が滅亡し、三国時代に入ることとなる。文帝は内政の諸制度を整え、父から受け継いだ国土を安定させた。特に陳羣の進言による九品官人法の制定は、後の世に長く受け継がれた。
一方、外政面では3度にわたりに出兵した。黄初3年(222年)に始まった出兵は、三路から呉を攻め、曹休呂範を破り、曹真夏侯尚張郃らが孫盛諸葛瑾を破り、江陵を包囲攻撃し陥落寸前まで追い込んだが、曹仁臧覇が最終的に敗れ、疫病が流行したため退却せざるを得なかった(222年から223年にかけての三方面での戦い)。黄初5年(224年)の出兵は、徐盛が長江沿岸に築いた偽の城壁に驚き、戦わずして退却した。翌黄初6年(225年)の出兵は、この年は寒さが厳しく川が凍り、船を動かすことが出来なかったので撤退した。この時、呉の孫韶の奇襲を受け、曹丕の副車などが奪われた。孫権が臣従していた頃に呉王に封じてしまったことと、これらの出兵失敗は、やがて孫権の皇帝自称に繋がる。
司馬懿・陳羣・呉質朱鑠(字は彦才)は文帝に寵愛され、「四友」と呼ばれて重職を歴任した。
黄初7年(226年)、風邪をこじらせて肺炎に陥り、そのまま崩御した。死ぬ間際、司馬懿・曹真・陳羣・曹休に皇太子の曹叡を託した。
なお、小説『三国志演義』には、呉同盟に怒り、呉に対して黄初5年(224年)に大水軍をもって攻めるが徐盛に大敗、赤壁の戦い同様の被害を出し、そこで張遼を失ったと描写してあるが、これは創作である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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