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袁譚 : ウィキペディア日本語版
袁譚[えん たん]

袁 譚(えん たん、? - 建安10年(205年))は、中国後漢時代末期の武将。顕思豫州汝南郡汝陽県(河南省商水県)の人。父は袁紹。弟は袁煕袁尚(母は劉氏)。袁尚とは異母兄弟と思われる。従兄弟は高幹。伯父は袁基(太僕)。一族は袁買〔袁買は、袁譚の弟という説の他に、袁尚の兄の子という説もあるが、いずれであるかは不明である。〕。
== 正史の事跡 ==

=== 青州刺史として ===
父の命で伯父の養子となり〔『後漢書』袁紹伝より。〕、後継者から外されて〔『魏書』袁譚伝にある裴松之が引く『漢晋春秋』の審配の文書より。〕青州へ派遣された〔。
袁譚は公孫瓚が青州刺史に任命していた田楷と、正式な青州刺史だった孔融を駆逐した。このことで、袁譚は曹操から青州刺史に任じられた。なおこの時、沮授は袁紹に対して「袁譚どのを青州に赴任させることは、災いの始まりです」(後継者争いを触発しかねないことを指すものと思われる)と諌めたが、聞き入れられなかった。
袁譚は優れた人材を招くことを趣味としながらも、実際は奸臣の言葉ばかりに耳を貸す人物であったという。そのため、王修のような優れた人物を招いても意味はほとんど成さず、青州の統治でも混乱を招くばかりだった。青州は非常に荒廃しており、一万戸ある都市も戸籍に登録しているのは数百戸程度であり、租税の納入が3分の1以下であった〔『魏書』袁紹伝注にある裴松之が引く『九州春秋』による。〕。
ただし、上記状況については以下の点を考慮しなければならない。まず、袁譚が青州を統一する前、青州は袁紹・公孫瓚・孔融・黄巾党が激しい戦いを繰り広げていた。特に青州での黄巾党の活動が、袁譚の刺史就任直前においても大規模なものであったとあり、青州の治安は非常に悪かった。また、袁譚の人材登用での混乱については、当初の青州別駕(州内第二位の地位)だった劉献が王修の起用を妨害するなどの悪条件も重なっていた。後に王修が青州別駕に昇進すると、袁譚は王修を腹心とし尊重した、などの記述が見られる〔『魏書』王修伝より。〕。
これらの点に鑑みれば、『九州春秋』による袁譚の評価を全面的に信頼すべきかどうかは、慎重な検討が必要となる。また事実として、青州統治を経ても袁譚が後継者争いから脱落することはなかった。
建安5年(200年)、袁譚は曹操の下から逃亡してきた劉備を丁重に受け入れた。袁譚は劉備が推薦した茂才であったためである。同時に、袁紹・袁譚親子は劉備を敬重したと記されている〔『蜀書』先主伝注に引く『魏書』による。〕。
官渡の戦いでは袁譚も父に従って参戦したが、曹操に大敗したため青州へ引き返した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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